[古川氏:
(*省略)質問がある方は、お願いしたいと思います。]
[質問者:
質問じゃないんですけれども。大変面白かったんですけど、「一尺八寸」が「みおうやま」っていうのビックリしました。確かにあれは石を切る時の大きさ(*不明)が、ただ、杷木の神籠石はですね、やっぱり山国川、花月川を上ってやっぱ海は大変なことです。で、もう一つ、杷木の神籠石の真向かいに「大石堰」ってのがあるのご存知ですか?「大石堰」。江戸時代にですね、5人の庄屋が首をかけて造ったという堰があるんですよ。すぐ見えてます、杷木神籠石の目の前に。]
あれ?それは実際に神籠石のような大きさで造られてます?で、その堰にどれくらいの数、使ってあります?
[質問者:
ものすごい量。で、伝承そのものに、近くの石を持ち出して、(*不明)石とか、そういう大石を持ち出して造ったっていう伝承もあります。で、5人の庄屋の首かけてますから、地域のお百姓さんたちが(*不明)筏を組んで(*不明)石を積んで筑後川を運んだという伝承があるので、もしかしたら、杷木の神籠石はこちらに使われた可能性が、目の前ですから。]
目の前だったら、それ使われてますね、明らかに。
[質問者:
使われた可能性はあると思います。]
へぇー、でも朝倉の学芸員さんはそれは言わなかったですね。じゃあ、そこでも使われてるわけですね。それが大体何個ぐらいですかね?千個単位ですか?
[質問者:
それはですね、石垣のようには組んでない(*不明)、でも横に(*不明)長い(*不明)50メートルかわかりませんけども、その範囲に石を、だから石を縦に並べたんじゃなくて、横に並べて…]
横に並べて、50メートル…
[質問者:
50メートル以上あります…]
50メートル以上…何段ぐらい?
[古川氏:
高さで2メートルくらい…]
[質問者:
で、長さが10メートル以上あると思いますけど]
[古川氏:
だから、取水堰なんですよ。]
取水堰、50メートル×10メートル×2メートル…
[古川氏:
その殺された庄屋がですね、古賀達也の先祖なんです。]
ああ、それは知らんです。(笑)
[質問者:
いやあの、庄屋さんは命は助かったらしい(*不明)、神社が(*不明)]
でもそれじゃあ、やっぱり2000個の数にはちょっと足らないですね。
[質問者:
だから、全部そこで使ったかどうかはわかりません。]
はい、わかりました。じゃあ、それも一つ使われてますね。はい、ありがとうございました。
[質問者:
天草のですね、棚底という所がありまして、倉岳っていう地区が。そこでですね、去年発表されているものに、これとは違いますけど、自然石の平石を箱型に組んだ地下の水路が発見されとります。で、まぁそれは江戸時代だろうっていう風に言われてます。で、全延長はですね、やっぱり1㎞ぐらいあります。]
1㎞もありますか、それもすごいですね。
[質問者:
ええ。名前がですね、「コグリ」って言います。地元の人たちは「コグリ」って言いますね。]
「こぐる」?
[古川氏:
「こぐる」。「くぐる」「潜る」の…]
ああ、「こぐる(潜る)」ですね、はい。
[質問者:
で、その石は切石でないけんですね、地元の開拓で出てきた石を利用しただろうって。で、水が通っとったって言いますけどですね、まぁ水が通るためには下が多分粘土の層まで掘って、その上に組み立てとんだろうっていう風に言われてます。]
じゃあやっぱり、一応密閉したんですね。
[質問者:
ええ、そうです。そして、その上に土をまたキャップとしてですね、その上でまた農耕もしとった…]
でもやっぱり、そういう設備はこちらにもあるんですね、面白いですね。
[質問者:
ええ、それがですね、天草っていうのはですね、非常に貧しい所ですね。農地が少ないから、その農地の下に造って、また上も農地にしたと言われてます。]
[古川氏:
上島(かみじま)の棚底です。]
じゃあ、そちらも給水設備ですよね?だからやっぱ、古代人はそこまでして排水設備は造らんと思うんですよね。
[質問者:
で、まぁ天草っちいうのは水がとても少ないですから…]
やっぱり、給水ですよね。
[質問者:
(*不明)水を貯めた所がないと、まぁやっぱ、そらぁ難しいと思いますけどですね。で、この熊本に「トンカラリン」というのがありますけど…]
ああ、あれ、私も二度ほど行きましてね。
[質問者:
あれ400メートルくらいっていう風に言うとりますけどですね、それに比べるとはるかにですね、天草のそのコグリ…]
1㎞の方が長いですね。
[質問者:
あるんです。そして、そう考えるとですね、「トンカラリン」大したもんだって言って、みんな言っとるけどですね、何のことはないわけでですね。自然の地隙に載せとるだけのもんなんですね。]
ああ、それは大変さは超えられますね。そら、人工のやっぱ1㎞のだったら大変な物でしょう。
[質問者:
まぁ、それはあの棚底の、あそこのですね、教育委員会がやってますので、教育委員会が言った結論は、まぁ江戸時代っていうことになっとりますけど…]
それは江戸時代ですね。
[質問者:
江戸時代で出来るんじゃないのかなぁ?とですね。そういう大きな権力なしでも出来るように思います。]
[古川氏:
他に何か?なければ、終わりますがよろしいですか?(*省略)]
[質問者:
少し良いですか?「ヤマト歌」、「倭歌」を「ヤマト歌」って言うわけですよね?もし、倭がこちらであったとしたらですね、こちらの歌が「ヤマト歌」だったことになります…]
そうです。
[質問者:
それは向こうに行ったわけですよね?そのまんまヤマト歌、倭歌として大きくした?]
そうです、もちろん。で、「倭の引っ越し」というのがありましてね。で、通説にも「邪馬台国東遷説」ってあるんですけども、持統天皇の後になりますけども、天武天皇・持統天皇の頃からおよそ100年かけて「東の大和」に引越ししたみたいです。で、もう一つの証拠がですね、多分歴史好きのみなさんだったらご存じと思いますけども、筑前・豊前には「廃寺」が多すぎるんです。辞めた寺というのが。で、我が国は奈良時代ですね、7世紀以降仏教は「国の教え」になっていくわけですから、「国の教え」になっていく時代に何で寺壊さないかんのか?というのが今まで誰も説明しよらんかったんですけども、要するに豊前・筑前にあった寺を、木造建築ですから分解して、そして向こうの大和に、引っ越した先に全部持っていって「再建」したみたいです。「移築」したみたいです。いやだから、こっちにはだから、木材が1個も出ないんですね、1本も。で、出るのはだから、礎石と瓦跡だけなんです。それ自体が本当は日本史の最大の「謎」なんですね。仏教は「国教」になったのに、何で筑前・豊前ばっかり「廃寺」があるのか?ということで。それがまだ謎だったんです。
[古川氏:
肥後は浄水寺廃寺とか、もう一つ何かありましたよね。]
ああ、肥後にも廃寺があるんですね。
[質問者:
城南…]
そういうことです。だからやっぱり、こっちのだから、やっぱ大きなお寺さんが全部やっぱりNEWヤマトに持っていかれるらしいんですね。で、私の前にだから、『法隆寺は移築された』っていう本を書いた人もいるんですけども、それは法隆寺だけにとどまらず、だからもうこれで、みなさんの方で肥後もあるわけですから、これでもう肥後・筑後・筑前・豊前・豊後、もうあちこちに廃寺があるわけですよ。じゃあ、何で九州ばかりに廃寺が集中するのか?今まで解き明かした人、誰もいないです。だから、今回みたいにやっぱりOLDヤマトからNEWヤマトへの引っ越しがあったと考えると実にわかりやすいわけです。
[古川氏:
鳥取県もありますけどね。]
だから、あれもだって倭国の一部でしょ?だから、あれが更にまたNEWヤマトでしょ?やっぱり。はい。
[古川氏:
鳥取県も10寺ぐらいあるんですよね。]
ええ、だからもう、吉備の国から東になったらもう廃寺はないですよね?だから、せいぜいあそこまでですよね。
[古川氏:
ということで、そしたら再度(*省略)拍手で終わりたいと思います。]
ああ、すいません。どうも、ありがとうございました。
<拍手>
<完>