私一人が天香山からは「銅が採れるぞ。金が採れるぞ。鉄が採れるぞ」もうこれだけ手掛かりに見つけ出したんですね。これ、証明されたらもう日本史全部ひっくり返りますよ。斉明さんまで間違いなくここにいらっしゃった。それでもう一つです。斉明天皇さんはこの時、同時に吉野宮を造られた。あの壬申の乱で有名な「吉野宮」も建築されております。で、これもやっとりました。
応神紀の所からようやくわかりました。豊の国に都があったら、都の東南、山を越えた先に、非常に険しい山の中に吉野宮を造ったとあるんですね。見つけました。今は中津市ですか?昔の山国町。奥耶馬渓ですけどね。その山国町の「吉野」。吉野っち言うんです、本当に。吉野という所に若宮神社というのがありまして、そこがどうやら斉明さんの造った「吉野宮」らしいんですよ。
境内にどういうわけか巨石がゴロゴロ。で、まわりにこう石組みのなんか城壁みたいに造ってるのがありましてね、山国川から真っすぐに船で下りて、こう高台に上がるというお宮さんで、階段も石段も相当長いですね。これもまた村人が造れるようなお宮さんじゃないわけですね。そうしますとね、この吉野宮に、あの壬申の乱前後に大海人皇子が逃げ込んだ。後の天武天皇です。
壬申の乱に勝利した時に、鸕野讚良(うののさらら)と6人の皇子を連れて、あそこで再び壬申の乱のような血肉同士の争いはやめようという誓いを立てるんですね。天武8年(*訂正済)でしたか。その宮がこの山国町、大分県中津市山国町の吉野宮であると言ったら、ところがどっこい、天武天皇もまだ九州にいらっしゃった。で、もうはっきり言います。奈良県の吉野川なーんの宮の跡ないです。かけらもありましぇん。
そこ立派なお宮さんですから行ってみてください。今日ここに来られてるサカイさんとかと行ってきましたけどね。で、もうこの後はちょっと詳しいことあんま言いたくないですが、実はこの時斉明さんはですね、「杷木(はき)神籠石」、杷木神籠石の石を切り崩して、筑後川遡って、そして山国町の所に「大石峠」(おしがとう)という山国川の支流にかかる分水嶺があるんですがね、ここをですね、船に大石を積んで運んだらしいんですね。延々、香春まで。
で、そこにサカイさんとね、(*不明)さん、座ってらっしゃるんです。「いや、そら無理やろう」と。「何でわざわざ、そげな遠くから石運ばないかんね?」今、論争中ですけど。で、杷木神籠石ってですね、みなさんご存知のように神籠石の列石、列石跡だけ残ってて、土塁跡だけ残ってて、石自体は実にこの前数えなおしたら7個か8個しかないんですよ、杷木神籠石って。
で、近くには香春の近くには「鹿毛馬(かけのうま)神籠石」もあるんですがね。鹿毛馬神籠石。あれにはなーんも手つけんで、杷木神籠石だけ石がないんですよ。で、前、やっぱ神功皇后調べよって、ずーっとまわって杷木だけとにかく石がないねぇと、ずーっと思っとったんですけど、「あれ、ひょっとして斉明さんがやらかしたからかな?」もう「大石峠」って地名も面白いでしょ?これ、ここなんですね。
普通だったらこれ、「おおいしとうげ」ですよ?「おしがとう」ってこれ非常に古い呼び方なんです。地名は面白いですねぇ。これ、偶然ですよ。この前、去年の9月にどうしてもその地下水路調べたくて、秋の9月の連休来たんですよ、2回も(*不明)。その時に車で杷木神籠石に寄って、ここから石取ったのかな?と思って、直感で行って、それでまた急いで吉野宮行って、それから香春に入ったんですけどね。
その時、通った道の横にずーっと川が続いとったわけですよ。「あれ?ひょっとして、もしかして?」地図見たら、「『大石峠』ってある!」っつな感じでね、驚きまして。今、そういう突飛もないこと考えとるんですがね。はい、そんなこんなでですね、色んな所で当たり始めたんですよ。これが証明されたら、これ、現物あるんです。あるんですよ。