じゃあ、それ送ってくれと言って送ってもらったんですよ。そしたら何と、やっぱり宮原盆地ですね、この322号沿いに最低4km以上の石造りの地下水路があると。で、地元の人は「吹き出し」って呼んでいて、それが始点がどっからで終点がどこまでか、それもまだはっきりせんと。一体いつ、誰が、何の目的で造ったか、それもわからんと。とにかく宮原盆地を時々掘ると地下水路があちこちで出てくると。
で、「何やろうね、これ?」と。しかし壊したら、水がブワーッと出るから、しょうがないからただ埋め戻すだけという水路があるんだと。まぁ、もう面喰いましたね。あるんですよ、地下水路が。石組みの。しかも一部はですね、今そこを流れる金辺川(きべがわ)の川底まで、深い所にあるんです。一部は。もうそれもはっきりしてます。それで今回もまた香春に入りましてね、香春町の水道局やそれからその最初に『香春』という郷土誌に書いた桃坂豊さん。
こういう人に会って、またできる限り情報集めてきたんですが、とにかく私の一番欲しい直接証拠の写真が出てこんのですよ。水道局もですね、香春町の水道局も実は「岩原」という所でほとんどその水路の終点に近い所に給水設備を20年前に作っとるんですね。その「吹き出し」から水を取る、取ってタンクに溜めとくと。だから、下手をすると斉明さんが造った渠の上に香春町水道局の建物が現在は建っとるわけです。
それで水道局に何度も電話したんです。その当時の設計図ないのか?と。その時測量したその地下水路の測量図ないのか?と。写真はないのか?と。で、この前そこの水道局のまだ若い人に電話したけども、何せ20年前のことでありまっしぇんと、わかりませんと。わかりませんじゃ済まんと。私は怒ったんですけども、しかしどうにもなりませんで、まぁとにかくそれで柳井さんとかですね、桃坂さんとかそれから水道局の人もですね、やっと確約だけは取りました。
今度出たら、とにかく測量する、写真撮る、デジタルに残すと約束してくれたんでそれを期待するしかないんですがね。今の段階でも4km以上にわたるんですよ。すごいでしょ?で、この時に斉明天皇さんはですね、もう一つ、大きな石造りの建築物を造ってるんですよ。<宮の北の山に石を累ねて垣とす(*1)>とにかく石垣の遺跡があるっち言うんです。で、これも「存在する」んですよ。
そこにありました「大坂山」ね。
大坂山の中腹に「呉中平雪穴」(くれなかだいらゆきあな)っつうのがあるんです。で、これがですね、表面は長方形になるんですが、長い方が9メートル、短い方でも7メートル、深さは5.5メートルという「石組みの穴」があるんです。で、明治時代にここに溜めた雪を夏の暑い時に周りに売りよったということで、土地の人が調べて、それでその人が売りよったから、じゃあこれは明治時代に作られたんだと。
一家が例え10人いたとしてもですよ、これだけの穴を掘って、それ周りを全部石組みするなんて出来やしないです。こんなことをね、香春町の人は平気で言っちゃうんですね。これ、自分たちの土地が「倭の国」だって思ってないから…これが証明されたらもうみなさん頭の中、全部ひっくり返るでしょ?神武天皇から斉明さんまで、みんな「九州」におられた。「豊の国」におられたんですよ。
「東の大和」に全然いなかったんです、誰も天皇さん。だから、奈良県の天皇陵ってあれみんな「偽物」ですからね?持統さんあたりが向こうに引っ越して行って、それで当時ぶっ潰した物部氏の墓から全部墓誌銘集めて、それで自分の先祖の天皇さん、あちこち当てはめたという非常に「インチキ」なお墓ですから、物部さんが良い迷惑ですけどね。そういったこともちゃんとわかってるんですね。
それから、もう一つ言いますよ?天香山、本居宣長先生が江戸の末期、とにかく奈良・大和に
天香久山
がなかなイカンと。それで土地の百姓さんに聞いてまわった。誰も知らんかった。それで腹かいて名付けたのが今の大和三山。これもちゃんと文献に残ってるんです。それでもですよ、江戸時代、本居宣長先生以来、明治・大正・昭和・平成、みーんな教科書で教わって、みーんなごまかされた。
*1
崗縣修正済