つまり、筑紫出身の神武さんには英彦山というあの難所からですね、裏側から、倭奴国・豊葦原中州国の中心を攻めるということはまず不可能なんですよ。地理知らないんですから。だから、八咫烏に応援頼むんですね。道案内してくれと。それで彼はさっきのまた天香山・香春岳の方まで行きましてですね、まず「天香山」を奪取するわけですよ。もう一回言います。「銅が採れる。鉄が採れる。」
つまり、倭奴国の権力の源である「鉱山」をまず奪い取るんです。そうやって再び彦山川水系を南下して、今度は嘉麻の水系、今の遠賀川の水系に入りなおしまして、そして多分信じられないと思いますが、直方の「頓野」、「とんの」。これが多分「鳥見(鵄)野」です。ここにいた長髄彦の軍隊を最終的に葬り去るわけなんですね。
で、それで彼は更にその東に都をつくろうということで、実はその都をつくったのが、これから言います香春の三山ですね。私はずーっとこれを「天香山」がですね、その銅の採れる山だということで、その前のページですね。この、今は失われた三連山ですね。手前から香春一ノ岳、二ノ岳、奥が三ノ岳です。この三ノ岳が実は銅の採れる「天香山」です。
で、手前の一ノ岳、今はもうセメント会社に削られてもう200メートルもありませんかね。この山の麓からは磁鉄鉱が今でも豊富に出ます。これで、神武さんは香山を手に入れた後に、頓野の、鳥見野の長髄彦を滅ぼして、ここに日向国、つまり筑紫の日向国ですよ。糸島半島を中心、大宰府中心。大体この辺りの領域から一気に豊葦原中州国、つまり豊前・豊後、この辺りまでを一手に治めてしまうわけでありますね。
で、これが西暦121年、辛酉の年だと私はようやく見抜いたわけですね。あの倭奴国の金印が証明しますように、あれが57年です。その後に倭奴国を倒すんですから、当然その57年以後の辛酉の年に神武さんは即位したはずなんです。そうすると一番近い、そして卑弥呼さんが238年に魏の国に使いを出すわけですから、当然その間の辛酉・かのととりの年であると。
そうするとそれはもう西暦121年しかないんです。だから私はこの国で初めて実年代を出したんです。西暦121年、神倭伊波礼毘古、香春のこの一ノ岳が実は畝傍山にあたるんですね。この東南に、高野の所に「鶴岡八幡宮」という、鎌倉の鶴岡八幡宮よりも50年早い鶴岡八幡宮があるんです。これも事実です。そのお山に橿原宮を建てて、即位されたらしいんですね。
そして、彼が亡くなったのは、再びこの畝傍山・一ノ岳の東北陵に埋葬されたって『日本書紀』に書いてございますよね?この香春の一ノ岳、私が畝傍山と言う山の東北には「おほきんさん」(大王様)と呼ばれる弥生時代の円墳があります。まだ未盗掘です。これが日本書紀の記述にピッタリあたりますんで、天香山と畝傍山が間違いなければですね、神武さんはこのお墓に眠ってらっしゃるはずです。
この(*不明)に掘るという話だったんですけど、香春町の教育委員会まだ掘ってくれません。銅板でも出てきたら、日本史が全部ひっくり返りますね。カムヤマトイワレビコなんて書いてあったら、もう私の「勝ち」ですよ。こういった墓があるんです、本当に。「おほきんさん」。手付かずです。で、この近くに住む箕野(みの)さんていう農民の方がですね、「ひょっとして自分の先祖の墓やなかろうか?」と思って一度掘ったことがあるそうです。