今日のみなさん図録の中にも、その時、神武天皇で使った図がありますね?終わりから2枚目です。この図なんですよ。これが多分、神武さんの頃の福岡県の地勢図です。博多湾はその通り多島海で、「志賀島」が本当に島です。おわかりになります?糸島の「志摩」も島です。まだ「海の中道」完全にできてないですね。で、こちらの方にいきまして、企救(きく)半島もほとんど島の方になってますね。
そして、一番大事なのが宗像の所にも大きな入り江がありまして、それから私が主張し続けてきました「古遠賀湾」という、今の遠賀川の所に入り江があります。ものすごく大きなリアス式の入り江です。そして更に東の方に現在の行橋市辺りにも大きな入り江があります。こういう形なんですね。それで神武さんはですよ、この糸島のこの辺り、高祖宮(たかすのみや)辺りから出発しまして、そして本家・ニギハヤヒノミコトの子孫が治める豊葦原中州国に向かって侵略を開始するわけですね。
それが「第一次東征」です。そして最初はですね、その中国史に出てきます、中国正史に出てきます例のあの金印の国・漢委奴国、倭奴国を、の中心地を目指していくわけですね。それがイコール「豊葦原中州国」だという風に見つけ出したわけです。もう全部、今となっては失われた地名ばかりですね。そして神武さんは第一次東征においては、この遠賀湾からいきなりニギハヤヒの末裔の国・倭奴国の都を陥れようと遠賀湾から入るんですが、ここで長髄彦に撃退されて、お兄さんの五瀬命も敵の矢に当たるわけですね。
そうして、残念ながら第一次東征失敗で、博多湾に戻ってきます。博多湾の住吉神社さんのある所に鎌倉時代まで「草香江」という入り江がありました。そこに戻ってきたんです。日本書紀そう書いてありますでしょ?「草香江」まで戻ってきて雄叫びあげたって。そこを「盾津」(蓼津)というって。だからこれ、みんな史実だったんですね。草香江まで戻ってきた。
それで今の宝満山・竈門神社がありますんで、多分これが竈山、それで五瀬命を竈門山に葬って、和歌山県の竈じゃないです。こちらです、福岡県。あの竈門山・宝満山に兄を葬って、ここで3年間か5年間ですかね、軍隊立て直すんです。立て直すんです。で、みなさんは不思議に思いませんでした?おかしいでしょ?だって、みなさんが知ってる通説だったら、こっちの日向、宮崎県でも福岡県でもいいですよ。
出発して瀬戸内海渡って、それで大阪湾突入して負けた。それでしょうがないから、お兄さん和歌山県の所に葬って、それでこっちの熊野から上陸し直して戦った。しかし、よーく読んでいってください。後ろの方に行って敗残兵、兵を補充する暇もなかった神武さんが後半の戦いで敵の大部隊と戦って勝つんですよ?ゲリラ戦しかできなかったはずの部隊が。敵の大群と堂々と渡り合って、鳥見の長髄彦を滅ぼすんですよ?「矛盾」でしょ?
どこで補充するんですか?吉備国を出て以来、どこも帰ってないんですよ?ところが、『鞍手郡誌』「射手引神社社伝」では明らかに筑紫に戻ってきた。宝満山の所で軍隊をもう一回編成し直した。はっきり書いてある。当たるんです、これ。それで今度はみなさん有名な「日に向かって戦ったから負けた。じゃあ今度は日を背中にして戦おう」と。じゃあ、「第二次東征」どうしたか?
関門海峡渡って、これで宇佐に行くわけです。宇佐に行って、英彦山まず越えるんですよ。英彦山越えるんです。英彦山越えて、その近くの求菩提山に今でも八咫烏、烏天狗が祀ってあります。つい2、3日前もまた行ってきましたけどね。その八咫烏、つまり「烏」。私の方では一応多分インドのガルダ神だと思うんですが、それをトーテムとする一族に、つまり倭奴国の一部族にですね、加勢を頼むわけです。道案内してくれと。