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2017年3月14日

#004 「真実の仁徳天皇」福永晋三 [10分~15分]

で、ストリップ見たいのは多分、男やろうと。こげなこと言いましたらですね、もう会の人が怒りまして、「福永さんね、アンタ神話をね、そんな風に下卑たものにしちゃいかんよ!」なんて言われましてね。「いや、しかし裸見たいのは、女の裸見たいの男やろ?」っちな感じで()。こういう古代史のやり方をしとるんですがね。で、よく考えてみてくださいよ?


じゃあ、女のアマテラスさんがですよ、天の石屋戸に入る時は自分の力で入ったんですよ?「カラッ」。いとも簡単に「カラッ」。で、何でそれが開かないんですか?それが何で後で天手力雄(*不明)開かないかんか?ということがずーっと謎だったんですね。で、それをねやっていきますとですね、これがまた偉い事実がわかってきましてね。で、このアマテラスがですよ、ニギハヤヒだとします。


これがあの福岡県の宮田町と飯塚市の間、今、宮若市ですが、その間にある「笠置山」という山に降臨したという記録が『先代旧事本紀』なんかに出てくるんですよね。あるいはその「天照宮」というお宮さんの伝承に出てくるわけですよ。それも年代がピッタリ決まっておりましてね、垂仁天皇16年です。で、これは実際に東方年表なんかで換算していきますと、紀元前14年なんです。


このニギハヤヒさんというのは別名・天火明(あまのほあかり)さんです。古事記、日本書紀出てきます。天孫降臨のニニギノミコトのお兄さんです。ですよね?じゃあ、お兄さんがどっか放ったらかしになってて、弟だけが天孫降臨やったというのが実は古事記、日本書紀のイデオロギーなんですよ。実は天孫降臨の本当の主体は「ニギハヤヒ」だったんです。


だって『先代旧事本紀』でいけば、32人の将軍とそれから天物部等25部衆を率いて降臨したってあるんですよ?これが、豊葦原瑞穂国・豊葦原中州国に降臨したんです。要するに韓半島で飯の食えなくなった連中が自分の生き死にかけて、その豊葦原瑞穂国の豊かな米、奪い取っちゃろうって来たんです。命がけだったんです。その降臨先が他でもない、あの立岩の遺跡。


あそこから出てくる立岩式石包丁、それを使って広く稲作がこの福岡県全体で行われていたわけですよね。そこへ降臨してきた。早く言えば「侵略」してきた。だから、中心はニギハヤヒさんだったんですよ。じゃあ弟・ニニギノミコトはどうしたんかいな?と言いますと、これは「糸島」の方に上陸するわけ。で、糸島の古田さんが言うように、こっちの方の「日向峠」ですか?


あの辺りに降臨するんですね。で、これが「五伴の緒」って言います。たった5部衆しかいなかったんです。物部5部衆です。お兄さん、25部です。5倍です。じゃあ、どっちが中心ですか?っていう話だったんですね。それで私の方は、古田さんの九州王朝、私の方では「筑紫一元論」と悪口言っとりますけど、実は「豊の国」が古代の中心じゃないか?と。


まぁ、そういったとを考えてるわけですね。それで明日、菊池の方でお話します神武東征の所でもそうなんですが、そのニニギの子孫の神倭伊波礼毘古/神日本磐余彦天皇ですね、後の。カムヤマトイワレビコさん、神武さんがですね、東に行って、都を造ろうと言ったわけです。じゃあ、糸島半島の東ちゃどこか?と言ったら「筑豊」やない?


で、みなさんもうはっきり言って、もう「ヤマト」って言うたらもうみなさん「奈良県」と刷り込まれてますよね?そうやないと。で、実は室伏とか、それから大芝さんが言っておりますように、神武は実は瀬戸内海を渡らなかったと。で、そうしました時に、じゃあ神武は一体どこを攻めて、どこに都を置いたのか?ということをやっておりましたら、昭和9年発行でしたかね?


『鞍手郡誌』という、これまた私の生まれ故郷の郡誌なんですが、この中に「射手引神社社伝」というのが載っかっとりまして、神武の東征コースがめたらやったら詳しく書いてあるんですね。で、みなさんがよくご存じのですね、神武さんはですよ、最初の実は私が分析しまして、「第一次東征」と「第二次東征」があるんです。「第一次東征」は古遠賀湾から入り込むんですね。