で、それが昨日まで行っておりました佐賀県の『肥前国風土記』の世界の中に、例えば武雄市の福母にあります石崎八幡神社さんの神社伝承の中にも明らかに景行さんが肥前の国の88人の女酋長を退治したという記録が残されてますね。だから、景行さんは肥前国もやっつけてまわってます。で、本来、景行さんは高良の行宮を中心にして肥前国を経営しておりますので、当然この高良の行宮、これは高良大社と思われるんですね。
(*不明)あそこ神籠石があるから。だから、あそこに入り込んで、あそこを拠点にして、こっちをやっつけて行ったわけですから、当然、久留米の地は一度やっぱり景行さん、「タラシ系」の天皇さんの最初がこの土地でやっぱり戦争やらかして、ここ従えて、そしてここを拠点にして、肥前国を退治していった。そういういきさつが伺えます。今回その確認のために来たんですがね。
ちょっとお年寄りの方連れてたんで、あんまり調べられなかったんですが。それでもやっぱり明らかに高良という土地はですね、久留米という土地は神武の時の「狗奴国」、それから卑弥呼の時も「狗奴国」ですから、日向国ですか、それから景行さんの時の高良の行宮、いずれにしろ久留米というのは古代史において、『日本書紀』に直接には書かれていないけど、豊の国の御所ヶ谷神籠石も含めて、すべて途中からのその「易姓革命」の際に重要な拠点となった場所ばかりです。
特にこの久留米の地というのは九州の経営にあたって、一度はここを経過しないとダメだったんでしょうね。だから、景行さんの時にも高良の行宮が出てきますし、神功さんが水沼の皇都を建てたということで、この土地は日本古代史における一つのキーワードと言いますか、重要な場所ですね。ここで、やっぱり古代の易姓革命・クーデターの大本っていうのは、全部久留米に集中している時があります。それが正直に言って、今の私の直観です。はい。
[質問者:
すいません、景行が一旦征服して、衰退していって…]
それでまた今度はそうですよ、仲哀の後にまた神功さん攻めてくるんですよ。私は仲哀と神功は夫婦じゃなかったってことは私も思ってます。百嶋さんとは別の考えで。はい。
[質問者:
じゃあ、神功から後はもう一系…]
神功からの後はしばらく「倭の五王」がこの土地に根付いたんだと思います。だから、大善寺玉垂宮の隣の御塚古墳と権現塚古墳というのは「倭の五王」の誰かが眠ってるんだと考えています。
[質問者:
ということは、一系じゃなくて本当色々…]
もう一系ではありません。もうズタズタです。もうクーデターだらけです。『日本書紀』読んでいくとすぐわかります。「乱、乱、乱、乱、乱」ですからね。もう続きですからね、「ランラン気分」です、本当に…(笑)
[質問者:
狗奴国のですね、居城は?]
もう、「鞠智城」と思ってます。だから、正直言って「鞠智城」、律令時代に造られたあの城の「下」を私は知りたいです。
[質問者:
あの、正史では…」
出てきません。そんなことは。
[質問者:
(*不明)の兵站基地という考え方が強いですね?それから別の所で聞いたんだけど、熱田神宮に対する一宮市の八王子古墳、で、これが狗奴国だというようなことも聞いたんですね。]
でも、それは魏志倭人伝による限り、逆に狗奴国から、倭の国・邪馬台国を考えた方がわかりやすいんじゃないですか?だから、奈良県はどっちにしろ狗奴国が比定できないから、邪馬台国が怪しいわけでしょ?だから、狗奴国がこっちの地域ではやっぱり山鹿・菊池を中心にあれだけ遺跡も残ってて、しかもそこが神武の発祥地であることを勘案していくと、あそこがやっぱり狗奴国の中心であり、菊池川流域がやっぱり一番狗奴国の中心、こちら地名研究会が探された茂賀の浦の水田という大穀倉地帯を背景にした武力でしょ?経済力でしょ?
だから、この国は倭国・邪馬台国女王に負けなかったんですよ。逆にやっつけたんですよ。だから、女王は(*不明)らざるを得なかった。これで魏志倭人伝、これみんな裏付けられたんですよ?だから、逆ですよ。狗奴国から邪馬台国を比定しないと、どうもおかしいみたいです。私もここに来てやっと気づきました。
もう去年本当にあのウガヤフキアエズ陵でもう本当に考えを自分で180度改めなきゃいけないなと、いけないって思いました。だから、とりあえず今日紹介したように「東鯷国」考えてください。東鯷国を考えてもらったら、ちょっと愛知県の方に狗奴国を置くことというのは無理です。もう、今の私の考えでは無理です。はい。
[質問者:
斉明が渡ってくるですね、ルートの中で今日あの先生が示された湾、入り江がですね…]
はい、「古遠賀湾」。
[質問者:
あれがずーっとルートとしては「岩瀬」の方にね、「磐瀬宮」の方にこう下ったっていうの、あれはやっぱり「朝倉宮」の方に…]
そうです。
[質問者:
あれから下って行ったら、(*不明)そうだなぁと私は思うんですが…]
そうです。大当たりです。さっきの熊野神社のあそこに出てる碑の中にも斉明天皇の記事があるんですよ。斉明天皇の時に、異国の人がやって来て、疫病が流行ったとか何とか伝承が残ってます。だから、まだあの時代には遠賀湾に入って来て、まだ幅の広い川だったでしょうから、飯塚までやっぱ入れたんですね。どうやら船で。だから、斉明天皇がそれ「磐瀬宮」と今おっしゃられたでしょ?
あの壬申の乱における天智の「近江宮」っていうのは実はその「磐瀬の行宮」じゃないか?と私考えてるんですけど。だから、壬申の乱の一番中心の戦争も実は「古遠賀湾」で起きてます。で、去年仁徳天皇、「真実の仁徳天皇」の中で「吉野宮」というのもようやく奥耶馬渓の土地、山国川の上流に探しました。そこにやっぱり「若八幡」という神社があって、あそこが見事に「吉野宮」です。
どういうわけか知らないけど、壊れた巨石がゴロゴロしてます。だから、村人が江戸時代に造れるようなお宮じゃないですよね。山国川から直接こう上がってきた参道が続いてます。だから、あそこが「吉野宮」であったろうと、という所まで検討ついております。だから、英彦山挟んでますでしょ?そうするとやっぱり磐瀬宮・近江宮から軍隊を派遣して、英彦山の南の側の「吉野宮」というのは簡単に攻め落とせない場所なんですよ。
船でまわっても遠回りですから、山国川上って。だから、これで今、壬申の乱の戦いの図式というんですか、場所というのもおおよそ頭の中に今、描かれつつあるんですがね。まだ、私天智天皇の所に行くのに時間が相当かかりそうです。後は天命との戦いです。「磐瀬宮」は良い所に行かれましたよね。あそこ…(*1)
<完>
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中途半端な所で元動画は終了している