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2017年3月3日

#003 「大善寺玉垂宮と久留米の古代史」 福永晋三 [2時間45分~2時間50分]



で、それが魏志倭人伝の方ありませんか?(*不明)これ『魏略』にありますよね?『魏略』にあります。だから、魏志倭人伝には載っかってませんね。はい。これもだから、敵対国の呉と通じる部分がありますので、それはやっぱりあえて外したんだと思いますね。だって、魏はこれから邪馬台(やまと)の国の女王と仲良くしたいのに、彼らが呉の太伯の末裔じゃ困るわけですよね?


だから、多分これは意図的に外したんだとますね。これが出てくるのは『魏略』です。『魏略』です。これは間違いないですね。良い所気付かれましたよね。だから、それくらいに『魏志倭人伝』っていうのは政策的なイデオロギー中心の書なんですよ。だから、東鯷国の記事も外し、それから呉の太伯の末裔という記録も外すわけですね。


これがこちらの地名研究会おやりになってるでしょ?「松野連系図」です。あの山鹿の土地に、菊池の土地にあの呉の太伯の子孫が入り込んでくるわけです。これはあの春秋時代の終わり頃ですか、呉の国が滅んだ時に呉の民がこっちの土地に、熊本県の方に入り込んでくるという、あの伝承と全く記録と一致するわけですね。で、この国から神武が出たというのがまた面白いでしょ?


で、それが最終的には呉とつながりのあった東鯷国から来た神功にまた呉の太伯の末裔がまた滅ぼされるんですよね。だから、「事実は小説より奇なり」ですよね。私にもまだ今のところ、まだ何がどうなってるのか解決着かない所多々出てきますけどね。これくらい日本史って面白いですね。もう、謎の空白の4世紀なんてどこにも存在しませんよ?


こんな劇的な多く易姓革命というドデカいドラマがあったんですからね。NHKの大河ドラマ、あれだけ不人気なんですから、そろそろねぇ、神功皇后取り上げたらどうですかね?()すいません、余計なこと言いまして。


[質問者: 一番最後のページですけども、「~淡海の大津の宮を滅ぼし、御所ヶ谷に拠る忍熊王を殲滅。」と書いてありますけども、これ日本書紀には書いてたりは…?]


日本書紀には忍熊王の入水自殺までは書いてございますね。


[質問者: 御所ヶ谷というのは、どこでしょうか?]


あれ、行橋市の所にありますが?


[質問者: えーっと、それは日本書紀にそういう…]


日本書紀には全然出てきません。これはあの、私が景行天皇が京(みやこ)を置いたという場所がありまして、それが現在の京都郡(みやこぐん)の謂れになったというのはご存知ですか?はい。それでその場所がどこか?って訪ねて行ったら、御所ヶ谷神籠石の頂上に「景行神社」というのが祀ってあります。土地の人たちはみんな昔から、そこが景行の京だっていうこと認識してたみたいですね。


で、私は神籠石というのは定説とも古田説とも違いまして、このちょうど倭国・邪馬台の国の大乱の時に造られたって考えておりまして、一つの証拠は「崇神紀」に、「崇神紀」に箸墓を造る時の歌がありますよね?あの歌こそが、御所ヶ谷神籠石を造る時の歌じゃないか?ということを推定しております。で、あれが一つの御所ヶ谷神籠石をはじめ、高良大社の神籠石も含めて、北九州の神籠石はみんな要するに古代、「崇神紀天皇紀・倭国大乱」の頃に造られた城だと考えております。


その後に景行が再びそこを京として入り込んだと。で、景行も今あのちょうど「神功皇后紀を読む会」で今やってる所なんですが、今回その調査に来たんですけどね。で、景行天皇というのはみなさん日本書紀の「和風諡号」というの読まれるとわかるんですが、神武からですね、欠史8代までは「オオヤマトネコ」とか言いまして、「ヤマトネコ」という諱が入っております。


だから、これはだから、まさしく倭、香春を中心とする地域の王だったと思われますね。で、それに対して崇神というのは、これは「ミマキイリヒコノミコト」ですね。だから、私たちはこれ「イリ系」の天皇と言っておりますが、これはあのまた朝鮮半島から渡って来たんだと思います。北九州の地に。これが「イリ系」です。垂仁まで「イリ系」が続きますね。


で、次の景行が、これが実は今日やった神功皇后の「オオタラシヒメ」のタラシと同じ「タラシ系」の最初の天皇です。景行の和風が、諡号が「オオタラシヒコ」と言います。で、この「タラシ」という天皇さんたちは不思議なことに、神功の前にこの景行さんが最初の「タラシ」であるならば、彼も実は播磨国出身でして、播磨国出身の人物が、だからこそ倭の国にやって来て、「九州統一」という事業をやらかすわけです。