それがほとんど17歳の時だって言うわけですよ、推測で。大変な「女傑」ですよね?普通ならもう、ストレスで流産ですよ。すごいこと古代にやった「怪物的な女性」がいたんですよね。だから、私惚れ込んでるんです、この人に(笑)。はい、それでですね、後はですね、淡海の大津の宮を滅ぼし、御所ヶ谷神籠石に忍熊王を殲滅。これは『日本書紀』にも書いてありますよね。場所は私が比定しました。
で、遠賀の地・岡の地で物部氏を招集して、ニギタ津(鞍手町新北)を出航。先程の地図です。で、橿日宮を経て、末羅県の熊襲を、先程の玉嶌の勝門比売です、を滅ぼすと。で、渡海して(*不明)筑紫に帰って、蚊田の森で、今の宇美八幡で応神を出産。で、穴門豊浦宮に帰還。穴門豊浦宮はかなりキーワードですね。相当の期間を経て、これは私が整理しなおした結果ですが、まだ変わるかもしれません。
美奈宜神社や平塚川添遺跡などに拠った羽白熊鷲を殲滅します。で、若桜宮(*1)、これがですね、宝満山・竈門山神社なのか、あるいはもうそのまま水沼の皇都に入ったのか、まだ判断に迷っております。ただ、竈門山神社は「桜の紋」ですよね?確か。行かれたことあります?宝満山。あそこのお宮さん桜の紋章ですよね?神紋ですよね?はい。数年後、筑後川を渡って三潴(みずま)を攻撃です。
で、桜桃沈輪を滅ぼす。女山(ぞやま)神籠石に拠る田油津姫(たぶらつひめ)を討伐。豊・筑・火の三国、これを私は「三韓」って言ったんです。なぜなら、途中出てきましたでしょう?新羅の王子・桜桃沈輪でしょ?百済の王子・鬼の城の温羅ちゃんでしょ?だから、これが本来の「三韓征伐」じゃなかったかな?と。つまり、朝鮮半島の三韓と倭国の神功皇后が滅ぼした、神功天皇が滅ぼした熊襲というのは、実は、実は「三韓の王子」だった。
だから、「三韓征伐」は悔しいけど、韓国側にちょっと有利ですけど、韓と繋がってたんでしょ?同族だったでしょ?この韓と同族の一族を神功さん、みんな退治行ったわけですよね?もう、そうにしか思えなかったんですよ。それで最終的にはあの夏羽まで焼き殺してますでしょ?あの夏羽もだから、現地伝承では新羅の王子なんですよ。香春の方では。夏吉の方では。あれも新羅の王子です。を征伐したと。
(*省略)実は邪馬臺國・邪馬台の国滅亡です。私、大変なこと言ってるんですよ?もう一回行きますよ?神武の始まりが、邪馬台国(やまとくに)の始まりなんですから、私によれば倭王朝は西暦121年に福岡県・豊の地に始まったんですよ?これだけでも「定説」と違いますし、本来ならば定説、日本史の教科書側の先生たち、大喜びでしょ?私、3・4世紀なんて言ってませんもん。
2世紀前半に倭の国・倭王朝成立って私言ってるですよ?ねぇ?もっと近畿説側っていうのは喜んでくれないと困るんですがね。そして369年、仁徳天皇57年です。水沼の皇都を建設。筑後遷都が行われた。だから、この土地が最初の頃は邪馬台国の都だっていうことを平成14年の御神期大祭で申し上げたわけですね。以上でございますが、これくらいでよろしいでしょうか?はい、『吉山旧記』のお話です。<拍手>それでは残りの質問、前半と後半まとめてお受けいたします。
[質問者:
魏志倭人伝の所で呉に関係があった東鯷国のことを、呉と関係あったんで、意図的にその話は魏志倭人伝から外されたとおっしゃたじゃないですか?]
そうです。魏志倭人伝外されてます、はい。
[質問者:
ですね?ですよね。もう一つ、魏志倭人伝が抜けてるのは、倭が(*不明)の後裔っち言う…そうすると、もう抜けて…それも同じ考えでよろしいんでしょうか?]
私もそう考えていました。魏志倭人伝には女王は、呉の太伯の末裔という一文があるんですね。
*1
最新講演では若咲神社(田川市川宮)に訂正されている