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2017年2月28日

#003 「大善寺玉垂宮と久留米の古代史」 福永晋三 [2時間30分~2時間35分]



「牛窓」という所でも新羅の王子・桜桃沈輪を退治します。ついに穴門豊浦宮(赤間神宮および隣の亀山八幡社)を落し入城。ということになりますね。これも調べぬいた結果です。現地伝承全部。「牛窓」というのは住吉の神がですね、牛、大きな牛に化けた新羅の王子を力技でひっくり返して、それで波がドドーっと鳴ったということから「牛転」(うしまろび)、転じて「牛窓」って言われる伝承が、今も現地に残されております。


万葉集の後の時代に、この「牛転」の場所で起きたその波のように私の隠してきた恋もバレてしまったなぁという乙女の歌が残されてますね。だから、その歌と合わせてもこの伝承は確かにあの土地に伝わってるんでしょう。それでこの当時はまだ私「邪馬壹国」って書いてありますね。古田史の後受けて。それでこの時、岡県主の祖熊鰐が帰順します。で、この熊鰐さんというのは今でも岡垣町の「西円寺」(*訂正済)でしたかね?あそこのお寺さんにいらっしゃるのが確か九十何代目かです。


~が帰順します。続いて伊都県主の祖、「いつ」ですかね、五十迹手(いそて)が帰順します。つまり、もう神功さんに敵わないと思ってもうあきらめちゃうんですね。それで一気にに橿日宮(かしいのみや)に進軍します。で、ここで仲哀が小郡(おごおり)の辺りで敵の矢を受けて、それで最終的に橿日宮で戦病死します。で、この後に神功は実は「即位」します。で、穴門豊浦宮に帰還すると。


さぁ、先程質問にもありました「神功天皇」さんという呼称ですが、ここにある通りですね。宋史日本伝中の『王年代紀』、<雍熙元年(九八四年)、日本国の僧奝然、その徒五、六人と海に浮かんで至り、銅器十余事ならびに本国の『職員令』・『王年代紀』各一巻を献ず>という記録が宋史に残っとります。この「奝然」(ちょうねん)というのは東大寺のお坊さんです。


で、その東大寺のお坊さんが中国に渡した『王年代紀』に基づいて、天皇家の系譜が書かれております。『新唐書』と『宋史』、この二書に載っかとりますね。で、出だしの所、前から続いておりますが、もう3字目わかりますね?<伊弉諾尊次素戔鳥尊~>もう、おかしいですよね?素戔鳥尊「即位」してますよ?<~次天照大神尊次正哉吾勝速日天押穂耳尊~>これが日本書紀の「天神」さんです。


<~次天彦尊次炎尊~>これは「ほむらのみこと」でしょうかね?聞いたことないですね。これ、神の系譜です。<~次彦瀲尊~>つまり、これが彦波瀲武盧茲草葺不合(ひこなぎさうがやふきあえずのみこと)ですよね。で、ここに至るまで<~凡二十三世並都於筑紫日向宮~>これがひょっとして山鹿市の日向の宮かも知れないんですが、に都すということになります。


で、<~彦瀲尊第四子號神武天皇自筑紫宮入居大和州橿原宮即位~>とありますね。はい。橿原宮に入居すですかね。<~即位元年甲寅~>だから、これは甲寅説を採っておりますね。したがって121年の5年前、先程の年表の第一次東征開始の年が『王年代紀』の神武元年になっておりますね。これは私の121年即位説と違う、別の即位説です。で、こういったことが中国側に残されておりますね。


それからずっといきまして、<~當周僖王時也~>これが『日本書紀』の構想ですね。えー要するに、紀元は2600年という、あの考え方の基になります。で、<~次綏靖天皇~>、タギシミミが外されていますね。もう綏靖です。


<~次安寧天皇次懿徳天皇次孝昭天皇次孝○天皇~>ん?字()が抜けてますね。それから<~次孝霊天皇次孝元天皇次開化天皇次崇神天皇次垂仁天皇次景行天皇次成務天皇次仲哀天皇~>で、この仲哀の所で注が入ります。