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2017年2月25日

#003 「大善寺玉垂宮と久留米の古代史」 福永晋三 [2時間20分~2時間25分]



「にぎた」がないから「熟田津」もないと。そうした時に、私がその磯光出身で、宮田町の、旧。で、それで小学校3年の時に、やっぱ漢字を覚えたての頃に、当時の担任のサトウキミコ先生という方に「何でこの土地、『磯光』と言うんですか?何で磯が光るんですか?」って、そういう素朴な質問しました。その時、小学校の先生がたった一言、「平安時代までそこまで海だったらしいわよ」。


この一言がこれにつながったんですよ。で、これを女房に話した時に、女房が鞍手町からこの「新しい北」と書く「新北」の土地見つけ出したんです。「あなたの生まれた所が『磯光』だったら、ここだって昔、海があったわよ」。これが万葉集8番歌の解明につながったんです。多分、この「新北津」だろうと。で、これも神功さんが出発した「和珥津」と同じだろうと。(*1)


そうした時に、また卑弥呼さんの時代に戻って魏使がやってきた時、「伊都国(いつのくに)の津」に着くわけですよね?で、2回目からの遣使以降は、この伊都国の津の所で物を渡して、それで女王か王からの返信をここの港で待ったってありますね。同じ場所らしいんです。だから、私ここ「伊都国」に比定することができたんです。宗像は「末盧」に比定できたんです。


その宗像から、ここの「新北」まで、「伊都国」までは、まさしく陸路で500里ちょうどの所にあります。こういう風にどんどんどんどん関連していったわけなんですね。で、この国は、もっと言いましょうか?もう宮田町でしょう、旧?あの「ニギハヤヒの降臨した土地」やないですか?だから、ここの国には常に所謂あの「一大率」というのがいるんでしょ?諸国を監察する軍隊が。


だから、元々これ、「物部氏の里」ですもんね。これ、みーんなこの周りの島とか山に、「筑紫物部氏・八十氏」が住んでました。遺跡も全部出てます。まぁ、そんなこんなでこれも神功さん、『吉山旧記』から始まって、コツコツコツコツ溜めたもんですね。で、この昭和38年の山崎光夫さんという方がつくられた「古遠賀湾図」、この図自体はですね、実はこれ鞍手町の歴史資料館が「古月古墳」、あそこに「古月横穴」ありますね?


これの展示をやった時にですね、ちょうど鞍手町の歴史資料館を数年にわたって通い続けた私からこの図が逆戻りしまして、それで鞍手町歴史資料館の学芸員がこれを使って「古月横穴」は当時、目の前が海だったという合成の写真で展示をやっていたわけです。これは私からの逆輸入です。で、これがそのまだ私が使ってるんですがね、これ見事な図ですよね?


この「新北」という場所、ここにあの今は熱田神宮と同じ名前の「熱田神社」という、倭建命とミヤズヒメを祀った神社さんがあります。ここの宮司さんの先祖が多分、この「熟田津」という軍港の長官だったんでしょう。この「熱田神社」の古宮がちょうどここの田んぼの所に建っておりましてね。その場所はちょうど島みたいになっておりまして、目の前の田んぼがちょうど目の前がこうね、入り江のように綺麗に湾曲しております。


だから、多分そこがこの8番歌にいう「熟田津」だろうと思いますが、神功さんが出発した「和珥津」でもあろうと思われます(*2)。そういう場所が未だに厳然と存在します。だから、あの田んぼ掘ってみたいんですがね。さぁそこでもう、いよいよまとめの方に入っていきますが、まだ私、神功皇后紀、『日本書紀』を全文載っけて、順序入れ替えて、解き明かして、「神武は筑豊に東征した」のようにまとめ直してないんですがね。


まだ時間かかろうかと思いますが、あらすじはこうです。4世紀後半、ついに東鯷国が挙兵した。もう、三角縁神獣鏡圏ですね。既にニギハヤヒミコトの傍流と融合したと推測される。で、ニギハヤヒノミコト、倭奴国(いぬこく)の初めの王ですけども、この次男坊の「ウマシマヂノミコト」、あるいは「ウマシマデノミコト」というのが今の大阪の方に祀られています。




*2