8世紀の人間には無理です。それを途中の時代から平和的になった後世の誰かが勘違いして、どっかから石を持ってきて、これで今の玉島神社の近くの所にこの石を置いたというだけのことです。だから、この石は本来「あっちゃいかん」石なんです。そうしますと、中世と言いますか、戦国時代に、勝った側が負けた側の自決を待ちますでしょう?
あれやっぱ「武士の情け」なんですよ。古代はこれだけ惨たらしく殺しちゃうんですから、だからあの同じ神功紀の中でも忍熊王という人物がやっぱり入水自殺しますわね。痛手を負う前に自殺して死のうっていうことで入水自殺しますよね?あれがやっぱ本来の姿なんですよ。生き残ったらとんでもない目に遭うわけですから、こういう風に。だから、忍熊王入水自殺です。
これで応神が即位することになりますよね?結果的に。だから、神功紀は全てが「事実」ですよ。こういうこと含めて。まぁ、これがまた一つわかってくるわけですね。このみなさん玉島川、玉島神社行かれたらすぐこれ見つかりますから見てください。これは後世の人々の勘違いです。何せ元は人間ですから、もう残ってるわけがないですね。
これでその私と仲の良かった飯岡君という人がですね、その「愛宕(あたご)神社」というのも、だからこれじゃないか?ということがわかったんですよ。愛宕神社というのも私が飯岡君からこの話を聞いて、このダルマの起源に思いついたわけですがね。愛宕神社はやっぱ同じような目に遭った神様を祀る所です。だから、「愛宕神社」の下の字、よく見てください。
屋根を表すウ冠の下に「石」でしょ?「石」でしょ?で、「愛宕」ってどういう意味か?ってまだ誰もわかんなかったんですよ。私が神功皇后のこの話至った時に一つわかったのが、多分「敵殺し」(あたごろし)の略だろうと。「あたごろし」=「敵殺し」でしょ?うん。で、「愛宕」神社だろうというんです。つまり、その土地に新しい権力が入ってきた時に前の権力者がそういう惨たらしい死に方をしてる、殺されてるわけですね。
で、昔の信仰で面白い…これも面白いと言ったら怒られちゃうんでしょうけど、不思議なことにはそういう恨みを飲んで死んだ人の霊は今度は逆に強い守護霊になるという思想がございますでしょ?これが「ダルマの起源」だろうと。そうやって惨たらしく殺された人の人形を持つことによって今度は逆にそれを持った人が強い守護を授かると。そういう思想のなくて、あのダルマの意味がわからないんですよね。
目がないのは当然、目を潰されたからです。で、よくあの「目隠し鬼さん、手の鳴る方へ」なんていう童謡がありますけど、あれも本来「目潰し鬼さん」です。だから、勝った側が下っ端の人間の目をくり抜いて追放するんです。だから、非常に時間をかけた死刑ですよね?その時に勝った側の子供たちが俄かに盲目になってしまった人をまさしく「鬼さんこちら、手の鳴る方へ」って誘ったそういう仕草の名残だろうと思われるんですね。
だから、こうなると古代も結構惨たらしいらしいですね。で、全身赤いのは血まみれになった、要するに「血だるま」にするですか?そういうことの表れだろうと思われます。ダルマの語源とあわせても神功さんは手足を切り落とした敵の女酋長さんの体の上に立って、鮎を釣ったという、まぁとんでもない謂れがあるんですね。実話だろうと思います。
さぁ、その彼女がこの玉嶋河の側のその女酋長を退治しに出発した場所がここです。これも後でやっと気が付きました。『日本書紀』に出てきます。<冬十月の己亥(つちのとい)の朔辛丑(かのとうし)に、和珥津(わにのつ)より発ちたまふ。>『日本書紀』ではこの後すぐに、新羅征討に行くわけですがね、実は年代的に記事を整合していくと、どうもこの玉嶋河のいわゆる熊襲退治に出かけた時の歌らしいんです。
この「和珥津」の津(*1)がどこか?ということをずーっと考えていたんですが、これがあの『万葉集』の8番歌、<熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな>という歌です。あの歌が斉明天皇の御製歌ということになっとりますが、あの「熟田津」(にぎたづ)が普通にはですね、愛媛の道後温泉の近くということですが、あそこに実は「にぎた」という地名がないんです。