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2017年2月17日

#003 「大善寺玉垂宮と久留米の古代史」 福永晋三 [2時間5分~2時間10分]



で、みなさん注意してほしいのは「廃寺」っておかしいでしょう?奈良時代には仏教が「国の教え」だったんですよ?それなのに何で福岡県は「廃寺」ばっかりなんですか?これが私の言う「大和王朝の東遷」です。つまり、「筑紫大地震」で天武天皇あたりが恐れをなして、天皇家から庶民に至るまで大引っ越しを「東の大和」にやらかした。本当に「大和民族大移動」です。


その時に、何せ奈良朝はあれだけ仏教大事な王朝ですから、こちらに建てていたお寺を全部解体して、近畿に持って行っちゃうわけです。新しい都に。だから、福岡県「廃寺」だらけ。おかしいでしょ?仏教一番大事な時代に「廃寺」なんて。不思議なことには「材木が一片も出土しない」んです、廃寺からは。礎石と瓦だけなんです、出てくるの。


つまり瓦と礎石は重くて運べなかったんです。材木だけ運んだんです。分けて。それで向こうの土地で心礎を新たに据えて、それで瓦を瓦職人に焼かせて、向こうで移築するわけです。再建するわけです。法隆寺もみんなそうです。有名なお寺であればあるほど、みんな九州のこっちの寺から持って行かれたようなんです。その薬師寺の話が、この『吉山旧記』にやっぱり別の箇所に載っかってます。


今日もちょっとお持ちしようと思たったんですがね。この薬師寺、つまり今、奈良県にある薬師寺が本当にこの久留米の土地から持って行かれた薬師寺であれば、そこに祀られている仏様、薬師観音ですかね、薬師如来ですかね、あれはこの『吉山旧記』の記録によれば、当時のまぁ住職と言うんですか、主と言うんですか、「唐」の国から持ってきたという仏様なんですよ?


ということは今、奈良県にある薬師寺の仏は、あれは「唐の仏」なんですよ。つまり、日本でも「国宝」なら中国でも「第一級の国宝」なんですよ、あれ。そういう、とてつもない物なんです。私、それを確かめるために中国は大同まで出かけたんです。唐の。向こうの国の唐の仏を見るために。で、疑いないんですよ、形式が。まぁ大変なことになってきたんですよ。


だから当然、中央の学者こんな話、目も向けませんもんね。あれが「日中にとっての国宝」なんですよ?そうなんです。そのお寺が向こうに移される時に、このどちらかの、このこっちにあった薬師寺の当時のその主だった人たちが揃いも揃って「自殺」するんですよ。「抗議の自殺」するんです。天武天皇の時に無理やり持って行かれるんです。向こうに。


そういう悲劇が『吉山旧記』に書かれてあるんですよ。これはくっきりハッキリコピーに残ってるから、もう一回みなさんにお見せしてもいいんですがね。それくらい『吉山旧記』ってすごい、すごい歴史の一コマなんですよ。もう、この「鬼夜」の始まりだけじゃなくて。そういう恐ろしいですね、伝承力を秘めておるんですね。さぁこれはもうみなさん、もうおなじみの光景です。


東京古田会のお仲間ですがね、この松明があまりにデカ過ぎると言うんで、「ひょっとしてこれ、捕らえた敵を火あぶりにして殺した時のやつなんじゃないの?」っていうことで、言った人がいましたけどね。そう考えたくもなるくらいデカいですよね?本当に松明を照らして桜桃沈輪探したという、松明そんなに太い必要ないですもんね。


だから、これはお祭り用にこういう風にしたのかも知れませんけどね。もう、それは今となってはわかりません。はい。さぁ、それでこの『吉山旧記』を中心にして私は神功皇后実在という念を深めまして、それであちこちのですね、『万葉集』に残る歌をはじめとして、それから神功さんを追い求めて各地を旅してまわりまして、いよいよ神功さんの実在を確認していくわけでありますね。


これがまずですね、『日本書紀』にも、それから『肥前国風土記』にも出ておりますけども、玉嶋河の側(ほとり)で神功皇后さんが年魚(あゆ)を釣ったという伝説があります。それで神功さんがその年魚を釣って、「あな、希見(めづら)」と言ったんで、この玉嶋の土地を「希見の土地」と言ったと。「希見國」と言ったと。そういう伝承が残されておりますね。


で、8世紀の歌人の山上憶良がその松浦川に遊ぶ乙女、つまり神功皇后のこの伝説以来ですね、乙女たちが鮎を釣って遊ぶという風習がこの松浦川、あるいは玉島川のほとりで行われたそうです。