まぁ、長過ぎますね。2倍年歴でもちょっと長過ぎますね。<~御遺骸を塚崎へ奉陵と云ふ。~>で、これを私は藤大臣ではなくて、神功皇后そのものの墓じゃないか?と一応考えてはいるんですがね。これも定かではありません。<~其の後、勅使御下向、高良玉垂宮の諡を給ふ。>これが今の高良玉垂宮の諡(おくり)ですから、これやっぱり大善寺玉垂宮の方、指すわけです。
これが『久留米市史』第7巻吉山旧記より抄録と。番号・読み下し・傍線は私が付けました。これがどう考えても「鬼夜」の始まりですよね?ここにもやっぱり神功皇后が一回だけ出てきてる。やっぱり神功皇后が桜桃沈輪を退治したというのは「忌宮神社」の社伝と合わせて考えても確かですね。だから、桜桃沈輪はここ久留米・肥前水上ですか、を中心に山口県の東半分までを領有してたらしいですね。
「忌宮神社」の伝承からいくと。それを神功さんはことごとく撃ち破って、それで最終的にはこの地に「水沼の皇都」を建てられた。どうもこれが歴史的事実のようです。この仁徳57年を採りまして、西暦369年という絶対年代をこの『吉山旧記』から採ったわけです。この『吉山旧記』がまた不思議な書物でしてね。
これは江戸時代に入る直前、関ケ原の戦い、もうほとんど1600年か、その翌年かに、この吉山家、元の宮司の家柄がですね、それまで巻物だった本を冊子本、今の私たちが見るような、こんな冊子本に移し替えた時の書写ということになっております。この『吉山旧記』は別名、『薬師寺旧記』とも言います。先程紹介した縁起もそうですけど、あれは絵縁起ですね、これ今の宮司さんは隈さん、あの「すみ」という字を書く「くま」さんですね。
隈宮司ですね。で、この家は、お宮は代々宮司さんが変わっておりまして、吉山家が就いたり、薬師寺家が就いたり、そして今最近は隈家になっとるわけです。で、『吉山旧記』のことを別名『薬師寺旧記』とも言います。なぜかと言いますと、「薬師寺」を名乗られた時の宮司さんが実は吉山家と決別しまして、今は鹿嶋市の方にいらっしゃるんですか?で、この原本は今、鹿嶋の方にあるんです。
そのお宅に。当の大善寺玉垂宮には、これ残されてないんですよ。で、光山さんがこれとにかく『久留米市史』を作る時にですね、頭を下げて頼まれて、それでその時、昔のゼロックスで取られたのが原本なんですよ。それで『吉山旧記』がここに載っかっとるわけでありますが、そのまた更にコピーを、つまりもう二次三次のコピーを私は頂いておるんですが、全冊分。読めないんですね、古くて。
これが欲しいんですよ。だからこれ、なんとかその鹿嶋の薬師寺家の人にもう一回お願いしてですね、全文、今は新しいコピーでくっきりハッキリ取りたいんですがね。そしたらまだ、全部何が書いてあるかわかるんですね。それから、もう一つ読み取れるのが、実はここには書いてないんですが、「薬師寺」という名前気になりますでしょ?なりますよね?
このお宮さんに訪れた時に、玉垂宮の本殿の裏ですかね、あそこに佐野神(サイの神/塞神/幸神/岐神)
が祀られてまして、その佐野神の前に実は昔の五重塔か三重塔か知りませんが、とにかく「塔の心礎」、中心の礎石の半分か3分の1に割れた石が置いてあったんです。置いてあったんです。
それでこの地名研究会にも時々来てると思いますが、私の嫌いな室伏志畔がですね、室伏志畔がとにかく筑紫、とにかく福岡県にあったお寺が奈良・京都のお寺に、まぁ移築されてるという、まぁこういう考え方が成り立つんですがね。これはもうみなさんご存知の通り、いわゆる「廃寺」というやつです。で、福岡県には廃寺が「多過ぎる」んです。