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2017年2月15日

#003 「大善寺玉垂宮と久留米の古代史」 福永晋三 [1時間55分~2時間]



これも後でやっとわかりました。<~我一度攻むるといへとも兵卒を討つとも沈輪を見ず、然れども遁るべき地なし、之に依りて随兵を責めて之を問はば、水中をくくると云ふ、今朝賊増兵し勢十倍すと云ふ。>だから、桜桃沈輪の方が軍勢デカいですよね?で、<④大臣秘計をめぐらし、同帝五十六年正月七日、~>正月7日、「鬼夜」はいつ行われるんですか?この日ですよね?


<~朝賊残らず退治し給ふ。⑤夜に入りて沈輪行衛しれず、~>まぁ、字がこんな字ですね。<大臣四方に命じ大池を囲み、棒を以て其の岸を打ち、松明を照らし鉾を以て水中を探り、~>ほら、ここで松明が出てきますね?あれ、大腿骨になっておりますがね。全部、「鬼夜」の起源ですよね?<~沈輪遁るる処なく、棒を奪取、葦連目当てに打って掛かる。用意の刃を抜いて沈輪の首を打ち落とし給ふ。その首虚空に舞い上がる、大臣ハ目矢を持って討ち落とし、茅を集め焼き給ふ。是鬼会の始めと云ふ 其の後筑紫安穏なり。>と書いてある。


だから、神功皇后さんが先程の「西征図」にありましたようにね、久留米のこの辺りで、一番の激戦が実は「桜桃沈輪との戦い」だった。だから、この久留米が一番、激戦の地だった。それが、『日本書紀』には「全くない」んですよ。逆に言えば『日本書紀』は、この『吉山旧記』を、この資料を持って来れば、この戦いがどこの場所で行われたかわかってしまうからですね。


だから逆に言うと、『日本書紀』が出来た頃の『大善寺玉垂宮吉山旧記』に書かれた内容というのは、当時の朝廷でも相当知られていたらしく、これがあると神功さん、あるいは神功皇后につながるですね、「系図」、そういったものがわかってしまって、『日本書紀』のいわゆる「皇系」、「皇室の家系」と合わなくなるからなんでしょうかね?


だから、『吉山旧記』なかったら、神功皇后紀っていうのは、神功皇后さんの行動っていうのは、一部分が全く抜け落ちたままだったですよね?私、最初にこの『吉山旧記』に出会ったということは、これはもう幸福というほかないですよね。これ、なかったら『日本書紀』からだけだったら、絶対解けなかったです。はい。で、次に『久留米市史』は第8代と書かれてます。「清麿」です。


<⑥藤大臣、筑紫御政事の為当国高村美奈尾の末なりへ御宮造営す則ち大善寺なり西南は入江海、~>当時の地形です。<~北方は大川、~>って書いてある。ちょっと違いますね?その絵にありますように、絵縁起の南の側ですかね?造ったの、新しいの?だから、沈輪さんがその北の方にいたみたいですね。で、<~北方は大川、御材木美奈尾より出る今の高良山なり。>


とにかく高良山から材木を取ってきたと書いてありますね。もう、こういったことがわかります。それから次が、<⑦深山にて、道もわかたず、~>昔の高良大社でしょうかね?<~人夫恐れをなし入る事を得ず、大臣自ら道を開き給ふ、其の後近民、山中より夜な夜な大なる火出ると云ふ。大臣異国追討の節、御祈念の一仏を此の山中へ安置し給ひしより其の火見えずと云ふ。>


何か「白峰」(『雨月物語』)(*?)の話に似たような話ですね。それで次ですね、<⑧仁徳天皇五十七年~>これは『日本書紀』の紀伝によりますね。<~御殿成就す。~>出来上がったと。<~時の人民筑紫大臣と称す。~>これ、清麿・藤大臣のことを言ったんでしょうかね?<~同七十八年三月十一日薨去、~>これがここでは藤大臣のことになりますが、これは後で説明しますね。<~御在す御年、神功皇后異国御追討より百九十余歳、~>