ページ

2017年2月14日

#003 「大善寺玉垂宮と久留米の古代史」 福永晋三 [1時間50分~1時間55分]

「須佐神社」のすぐ裏手ですかね。はい、そういったことで、まずとにかく、この久留米の地、「水沼の皇都」を明らかにせないかんということで、その光山さんから貰ったですね、『吉山旧記』。これを一生懸命、読むことから始めたわけなんですね。ここでみなさん一緒に読んでいってください。これは『久留米市史』に採られております。第6代と(*省略)8代ですね。これが『久留米市史』に採られております。全部読んでみましょう。


<第六代 葦連(あしつれ)>、この人物がようわからんですがね、<①仁徳天皇五十四年に肥前水上桜桃沈輪~>あるいは「ゆすらじんりん」とも読まれてますね、現地では。<~発起し、異国へ内通し、悪徒を集め諸所乱妨。>、「妨」の字ちょっと違っておりますがね。<異国へ内通し>というのが、どうも朝鮮半島の国と内通したらしいですね。書き方からいきますと。とにかく桜桃沈輪が反乱の、反乱の母体です。主です。


で、これも余談になりますが、この桜桃沈輪を探してですね、あるいは神功皇后の跡を探っていきますとですね、この人がもう一つ別の場所できちんと存在してました。山口県のあれはどこにありますかね?下関市(*訂正済)ですかね?そこに「忌宮神社」(いみのみやじんじゃ)というのがあります。忌中の「忌」ですね、「忌」みですね。「忌宮神社」。この忌宮神社の所に、この桜桃沈輪の伝承が残っておりまして、やっぱりこれを神功軍がやっつけるということなんですね。


そこで、桜桃沈輪は「新羅の王子」って言われます。「新羅の王子」なんです。こちらの『吉山旧記』にはないですね、その新羅の王子という伝承が。まだ全巻読んでいませんのでわかりませんが。とにかく桜桃沈輪、これがとにかく大事なことはそこでしょ?「肥前」でしょ?この人の本拠地、「肥前」なんですよ。それで僕はだから、肥前の方に本拠があるのかなぁ?と思ったら、他でもない久留米のこの土地が肥前の一部やないかということに気付いたんです。


これも大事な手掛かりでしたよね?それで仁徳天皇五十四年、<②同帝五十五年、三六六年十二月、勅命に随ひ、藤大臣~>これがあの先程言った大善寺玉垂宮がですね、有馬公によって無理やり入れられた神の名だったんですが、大善寺玉垂宮には、この人は関係してませんでした。<~藤大臣難波高津宮を出て、~>です。これは仁徳天皇故事になってるんで「難波高津宮」なんですね。これは実際に「大鷦鷯(おほさざき)天皇の宮」です。


だから、神功の軍隊がここから出たかというのは定かでないですね。何せ、仁徳は神功の「後」ですから、だからこれは多分、誤伝だと思います。<~出て、同年同月廿四日、筑後(*訂正済)塚崎葦連館~>、で、これ「塚崎」に御陵がありますね。これが一説には神功さんのお墓という説もあります。で、<~に御下着在す。帝名残をしみ、老臣は~>、老臣というのは藤大臣ですね、<~老臣は寔に天に候ては月也仰せられしより、後代高良宮を月神~>、現地では「たかがみ」さんて言いよりますね。


<~月神と云ふ>と。これもハッキリとはしませんが、伝承正しいですね。高良宮は「月神」さんです。「日神」さんじゃないですよ。「月神」さんなんです。で、次に③の番号が振ってありますが、<③沈輪御退治の御評議遊ばされ、其の時葦連云はく、沈輪は三方河池を構へ、一方は口なり。~>と。ここにまた赤字で傍線が引いてあります。これが最初始まる前にみなさんに今、回している所にあります、『絹本著色玉垂宮縁起』(*訂正済)、今どなたにありましょう?


はい、あれです。あれの一面が今の大善寺の様子が描いてありましたけど、もう一枚の方に三方が「河池」っていうのがわかりますでしょ?雰囲気として。だから、元々は海の中にある島みたいな所で、一方が出入り口だったということですね。だから今の大善寺玉垂宮そのものが、そのものがですね、実は「沈輪の館」だということです。