終わった瞬間には、みなさんから大拍手貰いましてね。あれが私のデビューでしたけど。そのしかし、大本はこの歌だったんですよ。それでまた光山さんって良い方と出会って、あの方に認めてもらわなかったら、今の本当に今日の私はなかったと思うんですがね。もう…まだ墓参り行っとらんのですよ、残念なことに。はい、さぁそれで、これがそれから本格的に神功さんを調べ始めましてね。
これは小倉で2、3年前には電話でお話ししましたけどね。実はこの本は購入したんですけど、これ、『神功皇后の戦略』という本で、やはり地元の方で、こちらの地名研究会の「ひもろぎ逍遥」さんの前にですね、そーっと神功皇后の福岡県下での活動を一日一日を巡って、記録された物ですね。ここに神功皇后御行動図と書いてありますように、多分私が知る限り最も早い綿密な神功皇后の福岡県に残る伝承の全てだと思いますね。
ここに神功皇后が熊襲を退治してまわられたですね、行程図が全部示されております。ここの大善寺玉垂宮、久留米を挟んだ部分につきましては、これが波線のような形で、こう描いてございますよね。この部分が実は『日本書紀』の神功皇后紀に「一切出てこない」物です。その他の黒い線で描いてある部分ていうのは、結構書いてあるんですよ、『日本書紀』に。これからお話しします『吉山旧記』と『日本書紀』の相容れない所というか、食い違いはこのルートなんです。
このルートのことが『吉山旧記』には書いてあって、『日本書紀』には書いてないんですね。この行動図の中で一番面白いのはですね、田川の方に「夏吉」(なつよし)という所がございますよね?二重丸で書いてある所です。あれもこれで初めて知って、それで現地に行って、そこにあの先程お見せしました香春三山の西側に「夏吉」という地がありまして、そこにやっぱり「若八幡神社」というのがあるんですね。
そこの宮司さんのハラダさん、今はもうほとんど認知症になられて、話が出来なくなったんですが、この方にお会いして話を伺って、「神功皇后、実在だと思います」というお話をして、「実はこんな図があったんですけど、ここに神功皇后の伝承残ってないんですか?」って話を聞いた時に、「そらぁ、あるよ」と。「この少し先の所に「岩屋」(ごうや)という鍾乳洞があって、そこで「田油津姫」(たぶらつひめ)の兄とされる「夏羽」(なつは)が焼き殺されたという伝承がある」と。
「その鍾乳洞が今でも残ってる」と。「アンタ、それ神功皇后やりよるんやったら、絶対そこに行かなアカン」と言われて行ったんですよ。そしたら、怖い鍾乳洞ですね。本当に入り口から入ると、もうみなさん鍾乳洞の壁の色って、大体天井の色ってわかりますよね?さっきの香春岳・天香山じゃないですけど「白」ですよね?本来。ところが、入ったら本当に「真っ黒け」なんですよ、その鍾乳洞。
夏羽を焼き殺したという伝承が、「1700年そのまま」なんです。そこ、煤で焦げとるから、後から入ってきた人たちが、その恋人のペアの名前書いたりして荒らしとるんですがね。天井まで真っ黒なんですよ。もう思わず背筋がゾーッとしましたね。その「夏吉」という所、他でもない、小笠原公が入ってくるまで、この土地の名前は夏羽を焼き殺した地やから「夏焼庄」って言ってたんですよ。
あんまり縁起が良うないから、小笠原公に頼んで今の夏吉に変わったっち言うんですよ。「へぇー!?」と思って、「すごいな、伝承は…」と思って、その鍾乳洞もまだ真っ黒でしょ?これ、土地の教育委員会の人に聞いたら、「ああ、あれは江戸時代に、ここに仏教関係で入った人が焚きよった線香やロウソクで黒くなったんじゃ」っち言うけど、「ロウソクや線香の煤で黒くなるか?天井まで」っちな感じで。それくらい広範囲に黒こげになっとりますね。
その話聞いたもんですから、私ももう怖気づいちゃいまして、もう最初の時は10メートル入ったらおしまいです。もう、すぐ引き返しました。その後、仲間を連れて行った時に初めて奥まで入りましたけどね。いやぁ、本当にやっぱり夏羽焼き殺した場所なんでしょう。筑豊にあったんですよ。「ごうや」っち言うですよ、「岩屋」と書いて。みなさんもぜひ行かれてみてください。夏羽を焼き殺した岩屋の鍾乳洞、第一鍾乳洞です。