高良大社、山の上ですもんね。平地にお宮さんないのかいな?って探したわけですよ。そうしたら、「鬼夜」という祭りをやってる大善寺玉垂宮というお宮さんがあるぞということで、こら行かないかんということで、彼がまだようわかってないのにというのに、彼が躍起になって「いや、何かあるぞ」って言って、もう私がこの歌を気に入った瞬間に旅行組んでくれましてね、こっちに来たんですよ。飛んで来たんです、東京古田会こぞって。
そこで古田さんが講演会を開いて、その講演会に当時、高良大社の、あれは何でしたっけ?何とか文化研究所のコガ・タモツさんが来られて、それから大善寺玉垂宮の方から今は亡き、去年亡くなられましたね。鬼夜保存会会長の光山利雄さん、二人が来られたわけですよ、同じ会場にね。仲の悪い同士が。何か当時の久留米ではショッキングな出来事だったらしいですよ。それぐらいに高良大社と大善寺垂宮、仲悪かったみたいですね。
私もその土地に行って初めて知りましたけど。それでその光山さんとその講演会の翌日に会うことになりました。ところが古田さんが前のその講演会で、とにかく大善寺玉垂宮が藤大臣の名前を祭神から消したと、それをやっちゃいかんですねということを力説したわけですね。これに対して光山さん腹かいたんです。あれは江戸の終わりに有馬公に無理やり入れられた祭神じゃと。だから外しただけなのに。これは後で聞いた話ですけどね。
それを古田さんが「神社が勝手にそんなことしちゃいかん」なんて言うから、もうあそこで腹立ったって言いよりましたですね。そこで翌日、『吉山旧記』を見せにもらいに行ったわけですがね。ところが光山さん、その講演会のおかげで、もう頭(*不明)だったらしくて、ムスッとして一言も口きかんのですね。我々、東京古田会の連中が一緒に行って、古田さん以下7人ぐらいこういたんですが、私も隣にいたんですがね。
まぁそれで古田さんが、その社殿にある通り本当は弥生の神様が入ってたんですけど、「いやそれよりもっと古い縄文の神様が入られてたんだ」って力説したわけですよ。そしたらもう、しかしもう、光山さんがもう何せ、終始不機嫌でどうにもならんかったんですね。その内に、『吉山旧記』コピーしてまわしてくださった。僕はそれを見て、それでもうそこに鬼面尊神、それから桜桃沈輪(ゆすらちんりん)、これ後出てきますが。
もうそこ見た瞬間に「え、こちらで祀られてる鬼面尊神さんって、この桜桃沈輪さんなんですか?」っていうことを私と隣の福田健さんという人と、ちょっとコソコソと話しよったんですね。そしたら、あんまり光山さんが反応しなかった古田さんがそこでまた逆に怒って、「そこ、なんですか!(*不明)」なんて言われたんで、「ハイっ…」って言って、「あの、ここに書いてある、吉山旧記に書いてある桜桃沈輪さんなんていうのが、これがこのお宮さんの神様なんですか?」って言ったら、光山さんが(*不明)ニコッとされる。
ってな感じで、「ここの鬼さんは、よか鬼ですたい」こう言われて、話が進んだんですよ。ようやく。そしたら終わり頃に今度は古田さんが逆でして、「変な話になったのは、アンタが変な質問するからだ!」って私が怒られた。こういう間柄で、まぁ段々と古田さんと別れていくことになるんですがね。この時、光山さんが、この時以来私のことえらく気に入ってくださって、それから何度か宮を訪れる内に実は1900年御神期大祭があるということになってですね。
その前の年の正月に、女房連れてここへお宮さんへ来て、社務所で焼酎飲んでる光山さんと会った時に、光山さんが「じゃ、お前ちょっとこっち来い」と言って、それでこう話をされ始めて、「実は来年、御神期大祭があるんじゃ。そこで記念講演やる」と。「そこでワシは、アンタを呼びたいと思うとる」と。まぁこう言ってくれたんですよ。「古田武彦?あんなんどうでもよか。古賀達也?あれは高良大社の回し者や。俺はアンタを呼びたい」と。
僕はそん時、焼酎が入ってたから冗談やと思ったら、本当にその後手紙が来て、それで平成14年の御神期大祭の記念講演会で、あの九州大学の名誉教授の方をね、二番手に据えられて、それから久留米市の教育委員会のトップですか?私、高校の教員がトリだったんですよね。もう今でも冷や汗かきますけど。そん時、光山さんがわざわざ紹介してくださって、「この人は、この久留米を邪馬台国の都やと言うとる人」ということで紹介してくださって、それでみなさんの前で平成14年の講演やったんですよ。