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2017年11月9日

#006 「神武は筑豊に東征した」2012.8.5 菊池市講演 福永晋三 [2時間35分~2時間40分]

あの都からですね、「東南」に山を越えるから、英彦山の山脈を越えるわけです。そこに「吉野宮」があるって言うんですよ。で、そこに天皇が離宮を建てて、吉野の離宮を建てて、そっちに行かれたから、今までその「国樔」の人々が、豊前に都がある時には中々物を献上に来れなかったっち言うんですが、天皇さんたちがその英彦山を越えて、吉野宮の方に行ったから、それで国樔の人たちが土地の物を持って献上しにきたっち言う。


そうしたら、中津市の元・山国町の所に「吉野」という地名がありまして、で、そこに「若宮神社」というのがあって、で、その若宮神社のすぐ横を流れるのが「吉野川」っち言うんです。じゃあ、「吉野宮」あるやないかと。で、先にこの「吉野宮」見つかったんですよ。で、その山国町の「吉野」から行くとですね、すぐ南が「玖珠町」。「吉野の国樔」ってのは今の「玖珠町の人たち」です。だって、「吉野」と「国樔」が一体なんですもん。


その玖珠町にあるのが「九重山」「九重町」「九重」。(*「久住山」「久住町」「久住」もある)昔の仮名遣いでいくと「くず」。で、昔は濁点なんか付けませんから、「くす」。だから、「くす」「くじゅう」「くず」。だから「吉野の国樔」いたんです。だから、これでまた神武天皇紀の歴史の事実性が浮かび上がんだわけですよ。で、僕は最初その「吉野の国樔」っていうのが、菟田縣の血戦のところに書いてあるから、英彦山を北に越えた所に吉野の国樔いたのかな?って最初思い込んでたんですよ。


で、応神紀のところで初めて、いや逆だと。英彦山南側だってわかったんです。で、「吉野の国樔」やっと見つけたんです。だから、神武さんは宇佐にやってきて求菩提山の頭八咫烏と同盟する前に、英彦山の南側、日田側沿いにですね、この、要するに倭奴国の、この菊池までに至るですね、この辺りにいた、その倭奴国の元々のメンバーですね、この人々を巡撫してまわって、「お前ら、俺たちに加勢せえよ」と。で、南を安定させてから、それで倭奴国の本拠地に殴り込みをかけた。


これでまた歴史が非常に順当なものとして蘇るわけですよ。これで「吉野の国樔」がわかった、神武紀の吉野の国樔やっとわかった。応神紀の「吉野宮」もわかった。そして、斉明さんもまたこの応神紀の吉野の近くにまた「吉野宮」を造られた。杷木神籠石から石を運んできて、となると、どうしても筑後川の水系の花月川、これも今度の水害受けましたよね、豪雨の。あの花月川遡ってくるわけです。で、山国町まで来ます。


で、そこにですね、何と山国町とその玖珠町ですか、その境に「大石峠」という漢字を書く峠があるんですよ。ほら、「大石峠」。で、最初「おおいしとうげ」と読むんやろうなぁと思って、角川の地名辞典引いたら出てこんのですよ。で、変だなぁと思って山国町の人に電話したんです。「あれ『大石峠』って漢字書いてありますけど、何て読むんですか?」って聞いたら、「ああ、あれ?『おしがとう』って読むんですよ」。「はぁ?」()「おしがとう」っち読むんです。「古語」なんです。


「おおいし」が縮まって「おし」。で、間に「君が代」の「が」が入って、で、「とうげ」という言葉の古い言葉で「とう」って言うんです。だから、全部で「おしがとう(大石峠)」。「あらぁ、偉く古い地名があったなぁ」と。で、ここが実は花月川と山国川の支流の分水嶺なんです。え?斉明さん、杷木神籠石の石を舟に載せて、そして花月川遡って、大石峠の麓まできて、大石峠の所だけ、ちょっとしょうがないから大石を通して、そして山国川の水系に入って、そして何と豊予(ほうよ)海峡と、これがさっきのが絡むんですがね。


で、さっきお見せした古遠賀湾、そこまでグルーっと回ってきて金辺川に入ると、香春の町までその舟で大石を運ぶことが出来るわけなんですね。まぁ、こんなこと言いよったらですね、もう隣の古川さんもですね、それからこの地名研究会に参加されている久留米の、太宰府の方面の人たちがですね、みんな反対しよるわけですね。