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2017年11月2日

#006 「神武は筑豊に東征した」2012.8.5 菊池市講演 福永晋三 [2時間10分~2時間15分]

で、「大原」まで行ったんです。一面の「田んぼ」。「貴船神社」という小っちゃな石の祠があるだけ。怖かったですよ。「ここかぁ、飛鳥浄御原宮は…」なんて()。私の仲間も未だに信じてくれません。私自身も信じてません、まだ。でも、『日本書紀』の記述からいったら、ここしか考えられないんです。で、みなさんも天武天皇なんて言ったら、もうやっぱ「東の大和」に行かれとると思うでしょ?ところがどっこいなんですよ。


で、これが「飛鳥」だってわかった時に、「飛鳥岡本宮」も出てきた、「飛鳥浄御原宮」まで出てきちゃった。証拠はないです。これから掘ってもらって調べてもらうしかないです、はい。で、ここの土地に立った時にですね、で、それでさっきの「真実の仁徳天皇」やってましたね、少しずつ。そして、とにかく「天香山」こだわってきて、これが「香春三ノ岳」であろうということずっとやってまいりました。


で、そうした時にですね、実は斉明2年の記事のところにですね、斉明さんは土木工事を好まれて、それで「狂心の渠」を造った、「狂心」、キチガイの「狂」ですけどね、それに「心」ですね。それから「暗渠」の「渠」という字を書きまして、(*省略)その「狂心の渠」を造られたっち言うんです。で、人夫3万余人を使ったと書いてありますね。で、石を積みて舟に乗って運んできたと。それから水工を使ったとかですね、そういうことが書いてあります。


で、<宮の東の山に石を累ねて垣とす>(*訂正済)という、そういう建造物も造ったっていう記録があります。で、3番目に<石の山丘を作る。作る随に自づからに破れなむ>(*訂正済)ということで、造るそばから壊れたという、石の山丘を造ったか壊したかようわからん遺跡があります。それから最後に<又、吉野宮を作る>という文句があります。


で、その「狂心(きょうしん/たぶれごころ)の渠」が<香山の西より、~>、また「香山」です。<香山の西より、石上山~>「石上」と書いて「いそのかみのやま」ですね。<~に至る>って書いてあるんですよ。これ、『日本書紀』の斉明天皇の2年記事読んでください。それで神武紀もそうだったように、僕はとにかく「天香山」にこだわり抜いて、ここが天香山だったら、じゃあ斉明天皇の「狂心の渠」というのも、この香春の土地の、香春三ノ岳の西にあるんだろうなって思い込んでたんですよ。


で、十数年も探し求めよったんです。そしたら、去年この「真実の仁徳天皇」探してまた再びそこの宮跡まで調査して回ってて、その時に香春町の郷土史会の会長さんの柳井秀清さんて方がいらっしゃるんですがね。この方が去年、同じように東京から何人か連れてきてて、まぁその人たちに盛んに香春の町の歴史を語ってる時に、「実は今走り寄る国道に沿うような形で、『謎の石組みの地下水路』がある」ってボソッと言われて、「はぁ?!」ってな感じで驚きましてね。「何?三ノ岳の東?宮原盆地に謎の石組みの地下水路?」もう、たまげましたね。「何、東にあったの!?」っつな感じ。


で、それからもう東京に帰りまして、矢も楯もたまらずに「その謎の地下水路、何で石組みってわかるんだ?」って柳井さんに聞いたら、「いや、とにかくここら辺を掘りよったら、すぐ出てくる」と。で、「いつ誰が造ったんだろうか、地元の人はわからん」と。で、「香春の町に一人だけこれを調べた人がおる」と。「それが香春町の郷土史会で出してる『かわら』という、その会報に出とる」と。ぜひ、じゃあ、それ探して私に送ってくれって頼みまして、送ってもらったんですね。


そこに最低限、出発点も最終地点もわかんないですけど、最低限でも「全長4㎞の石組みの地下水路」があるっち言うんですよ。で、地元では「吹き出し」っち言うんです。で、あろうことか香春町の水道局が20年前にその地下水路から水を汲み上げて、いざという時のためにタンクに溜めとるという一節があるんですよ。


もう、それでビックリして香春町の水道局に頼んで、「その20年前造った時のその画像の石組みの地下水路、吹き出しの写真、それから測量図ないか?」て言って一年間ずーっと何度もせっついてんですがね、未だに「ない」「わからん」って言われとるんです。で、地元では有名なんです。ただ、「いつ」「誰」が造ったか、「何で」こげなもんがあるか、誰も知らんのです。