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2017年11月1日

#006 「神武は筑豊に東征した」2012.8.5 菊池市講演 福永晋三 [2時間5分~2時間10分]

<狭井河よ雲立ちわたり畝火山~>「畝傍山」です。<~木の葉騒ぎぬ風吹かむとす>ということで、伊須気余理比売(いすけよりひめ)の皇子がですね、伊須気余理比売がとにかく3人の弟に教えるわけです。「アンタたちの腹違いの兄ちゃんが、アンタたち狙ってるよ」と。それで逆に綏靖が神八井耳命と謀って當藝志美美命を射ち殺すんでありましたね。その時の歌ですよ。<狭井河よ雲立ちわたり畝火山木の葉騒ぎぬ風吹かむとす>と。で、この歌が神武記の後半に出てくるわけです。『古事記』の。


で、「畝火山」、先程言ったように「香春一ノ岳」だとしますと、香春一ノ岳のすぐ麓に「狭井河」が流れてなきゃいけない。先程言った「飛鳥川」とイコールです。「犀川」です。かつて今の「みやこ町」が合併する前に「犀川町」がありましたよね。さいがわまち、さいがわちょう。あの「犀川」です。あの犀川が本来は一ノ岳の麓まで流れていたはずなんです。だから私は犀川と畝火山・一ノ岳が近いってことを最初言ったんですが、少し自信がなかったんです。犀川ちょっと遠いから。


そしたら先程の飛鳥川の歌と一緒になって、お仲間の高見大地さんがですね、「いや、あの川、元々土砂崩れが起きる前までは北の『御禊川』(みそぎがわ)流れてたんだよ」って言ったわけです。「御禊川が本来の流れよ」って言われたんです。あ、それだったらもうこの御禊川は本当に一ノ岳の麓まで流れとるんですよ。これでわかったわけです。じゃあ、神武の時まではこの「犀川=飛鳥川」は行橋を流れてなかったわけです。120年代は。まっすぐ、香春一ノ岳に向かって流れていたわけですよね。


これがまた歴史的にわかってきたわけですよ。これ、「奈良県」じゃ全然ダメなんです。「奈良県の狭井川」じゃ全くさっぱり意味がわからん。大体、狭井川自体が畝傍山の所流れていない。もう、こっちの福岡県に置き換えたらもうピッタリ全部が一致してきたわけです。これでようやく「飛鳥川」というのが確定したわけなんですね。ま、これも驚きでした。これも驚きでした。


だから、あれほど難解だった「飛ぶ鳥の明日香」が、飛ぶ鳥の明日香という土地、何とこれも「田川郡赤村」だったということがわかったわけですね。で、これがまたですね、面白いことにですね、もうこれから先、どんどん発展していくんですね。で、これが「飛鳥」ってわかった時にですね、「飛鳥岡本宮」っていうのがわかってくるんですよ。で、そこの赤村という所にですね、後の斉明天皇とか舒明天皇ですがね、その赤村という地図の所にですね、その油須原(ゆすばる)、今川沿い、犀川沿いにずーっと上流の方に向かいますとね、(*省略)「岡本」って地名がありますでしょ?


「岡本」という地名があるんです。(*省略)これがどうも「岡本宮」らしいんですよ。だって、ここが「飛鳥」だったら、「飛鳥岡本宮」でしょ?で、ここに今「光明八幡」という神社さんがあります。(*省略)で、このね、対岸の所に実は「我鹿八幡」、「我」に「鹿」と書いて「あかはちまん」という神社があるんです。その我鹿八幡さんの宮司さんに聞いたら、「いや、300年前はオラっちが『岡本』にあったんだ」と。


だから、「我鹿八幡」さんの所だったんです。300年前。(*省略)で、それでその我鹿八幡の宮司さんがやっぱり歴史をやっておられましてね。それでじゃあ、その、あれは安閑天皇の時ですか、(*訂正済/省略)じゃあ「我鹿屯倉」ってどこだ?って言ったら、もう宮司さん昨日のことのように「ああ、あそこの集落とあそこの集落、我鹿屯倉跡だ」と。いともあっさりと答えてくれるんですね。


で、ここにその斉明さんの「後飛鳥岡本宮」(*訂正済)があったらしいと。そうしました時にね、もっと驚いたのが実はそのすぐ南に「大原」がありますでしょ?「大原」と書いて「おおばる」。で、『日本書紀』の記述によればですね、「飛鳥岡本宮」の「南」に「飛鳥浄御原宮」があるっち言うんですよ、天武天皇の。