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2017年10月31日

#006 「神武は筑豊に東征した」2012.8.5 菊池市講演 福永晋三 [2時間~2時間5分]

『万葉集』の時代というのは「実景描写」を詠うということにおいて定評のある歌集です。私の専門ですから、断言します。じゃあ、昔の人が「昨日の淵が、今日は浅瀬になった」っち言うた。それが「現実に起きた」っち言うわけです。その起きた川があるのか?といった時に、私のお仲間の高見大地さんという人が「あぁ、あるわよ」と、いとも簡単に言ってくれたわけですね。


そこがその地図の場所です。田川郡赤村にですね、「犀川」(さいがわ)っていう川がありまして、で、これがそこで地図にありますように「灰坂」という所で(*省略)いきなり北に流れていた川が90度に折れ曲がって流れてしまったわけです。大規模な土砂崩れがあったらしいんです。で、天然の川が90度に折れ曲がるってことは、まずないそうです。だから、これを地理学の世界では「河川争奪」と呼ぶんだそうです。


で、この川90度に折れ曲がって新しくできた川を、今、行橋を流れている川の名前で「今川」って言う。その「今川」の「今」がいつか?というのがすぐにはわからなかったんですが、これが東に折れ曲がったことによって行橋の土地へ、この川がどんどんどんどん流れ出して、で、行橋の辺りが低地だったために、これが簡単に海に流れていかずに、その陸地に水が溜まってしまったっち言うんですね。


で、これが先程お見せした「真実の仁徳天皇」じゃありませんけども、偽の大鷦鷯の天皇の時代に、その「流松」、丁度この今川になって東に流れてきた川が行橋の辺りで、もう水だらけになってどうにも土地が使えなくなったと。それで天皇さんが、まぁ通説の仁徳さんが堀江を掘って、川を北へ流してやっとその流れを整理したという記録が仁徳天皇紀残されておりますね。で、その「流松」、その今川が流れて行く先がわからなかった「流松」という地名が行橋にピッタリあるんですね。


(*省略)そこに「流松」ありますね。すぐそこ下に「今川」って書いてありますね。それから「流松」の東側に「東流松」ありますね。はい、この辺りです。これがだから、大鷦鷯さんが堀を掘って北に流した川、「今川」なんです。だから、仁徳天皇紀の頃に、ここに赤村の所で大規模な土砂崩れが発生して、で、この川をせき止めて、そしてこの川が東に流れるようになったと。


じゃあ、この辺りで「昨日の淵が、今日の瀬になった」という場所がここだったと。で、それが<世の中はなにか常なるあすか河きのふの淵ぞけふは瀬になる>という「現実」の歌であったとする時に、じゃあ、この「犀川」こそが「飛鳥川」ではないかと。だから、「奈良県の明日香」ではなくて、やっぱりこの古代倭の国に「飛鳥」の土地があった。


それこそが「飛ぶ鳥の明日香」、すなわち八咫烏が神武さんから貰った領地であったろうと。だから、「赤村」の辺りが「飛鳥」だったわけです。これも初めて言った時はドキドキしましたがね。一応、私のお仲間たちは、もう川が折れ曲がってるんだから、多分そうだろうということで納得してくれました。そうした時にですね、神武のすぐ後がどうなったか?っていうの歴史的にご存知ですか?


「當藝志美美命/手研耳命」(たぎしみみのみこと)が実は本当は即位したはずなんです。ところが、この時に第2代は「綏靖天皇」になってきますよね?で、この時に、その當藝志美美命が綏靖と神八井耳命を殺そうとしていると。それで綏靖と神八井耳命のお母さんがその危険を知らせようと詠んだ歌がそこに載ってますよね。(*省略)