ページ

2017年10月27日

#006 「神武は筑豊に東征した」2012.8.5 菊池市講演 福永晋三 [1時間50分~1時間55分]

つまり神武さんと神功さんが交錯するんです。はぁ?何で筑豊の地に神武さんが?と。それで結果的にこうなっちゃった。それでもう一つ、『万葉集』のさっきの「天香山」にこだわり抜いて、結局「香春三ノ岳」が「天香山」であると。「一ノ岳」が「畝傍山」であると。じゃあ、神武さんはこの天香山を乗っ取りに来たんだと。で、香春の畝傍岳の東南に都を建てたんだと。あぁ、そうかぁと。


これでここまで来ちゃったんです。それで今まで言われてきた『魏志倭人伝』から何から全部の中国の正史を見直して、それで『日本書紀』を復元しなおして、そこに筑豊に残る各神社社伝を全部投入して、そういうのを全部一つ一つジグソーパズルを復元するかのようにやっていったら、全然今までの日本史の先生たちが見たこともない、聞いたこともない倭国史、倭の国史が出来上がっちゃったわけですね。で、どれ一つをとってみても、このそれぞれのピースは私が作ったんじゃありません。


私のでっち上げじゃない。全部、古典にあるやつばっかりです、現地伝承も含めて。つまり、僕以外の人たちがみんな残してきた伝承です。それらを全部上手に繋ぎ合わせたら、僕は要するに一番角っこの、一番わかりやすいピースを発見したんです。そこから、神武天皇の東征という今まで誰もが思い描かなかった歴史のジグソーパズルを解き明かしたわけです。全部、当てはまったわけです。私は多分一番わかりやすい角のピース突き止めたわけです。


そしたら、こんなの出来上がっちゃったわけですけどね。だから、『日本書紀』が一体何を「省略」したか?「射手引神社社伝」、「筑豊の社伝」をカットした。神武天皇の都がわかっちゃうから。ところが、神武天皇の都というのは、先程書いてありましたように、一番最初のページにありましたよね?最終的にここに神武の東征謀議に書いてあるここに結局都を建てたわけですよね。


で、そこが何て書いてありましたかと言うとですね、(*省略)<東に美し地(くに)有り。青き山四(よも)に周(めぐ)り、~>とあります。ほら?<青き山四に周り>という場所に邸宅、つまり都を造られたんですよ。で、それが香春の土地だったんです。で、香春の土地行かれたらわかります。まさしく、「四方山」(よもやま)です。「奈良」見てください。「盆地」です。生駒の山と、鈴鹿の山、「遠い」です。広々~してます。どこも山に囲まれてません。広すぎます。香春は狭くて本当に四方に周りますね。


そうしますと、景行紀に出てきます先程言いました有名な歌。<倭は国の真秀(まほろば)(たた)な付く青垣山隠(こも)れる倭し愛(うる)はし>これも香春の土地指してます。「奈良盆地」じゃ無理です。囲まれていないです。だだっ広いです。まぁ、こんなこともようやく見えてきましてね。あぁ、倭建命は香春に帰れなかったんかいなということがわかってくるわけですよね。はい、これがまず一つですね。で、次にですね、これがやっぱり「倭歌から解き明かす」ということなんですけども、道案内をした八咫烏が褒美を貰いますね。もちろん、古代の褒美と言ったら「土地」です。


で、八咫烏は一体、その求菩提山の八咫烏であれば、烏天狗であれば、彼ら一体どこの土地を貰ったのか?というのが疑問になってきますよね?で、先程「烏尾峠」のすぐ前の地名の所で「鳥居」というのがあったと。その「鳥」というのが、実はその「八咫烏」を指すんだというのが、『射手引神社社伝』に書いてありました。それで私は『万葉集』の方から歴史を見直すという作業に取り掛かったわけですが、その中でどうしても前々から考えてわからなかったのが、「飛鳥」の土地だったんですよ。


「飛鳥」。で、これは『万葉集』にはっきりと証拠が残ってないですが、多分「飛ぶ鳥の明日香」っていうような枕詞、「飛ぶ鳥の」があって、次に「明日香」ということで、「明」るい、「日」の、「香」ると書いて「飛ぶ鳥の明日香」って言うんですね。「飛ぶ鳥の」という枕詞が定着していたから、枕詞の「飛鳥」という漢字に「あすか」という読みがあたって、「飛鳥」と書いても「あすか」と読むことになるわけです。