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2017年10月26日

#006 「神武は筑豊に東征した」2012.8.5 菊池市講演 福永晋三 [1時間45分~1時間50分]

で、前、言いましたように、立岩遺跡のすぐそばにある「熊野神社」の社伝ですがね、それが結局神武紀の次の一文を解明する手立てとなったということで、ゆっくり読みます。<遂に狹野(さの)を越ゆ。熊野の神邑(みわのむら)に到る。且ち天磐盾(あまのいはたて)に登る。>という、このたったの三文ですね。(*省略)この「狭野」というのが、先程紹介した「狭野嶽」、『求菩提山縁起』に残る「狹野嶽」の話です。これが<狹野を越ゆ。>でしょ?


最初これ、『日本書紀』何が書いてあるか、さっぱりわかんなかったです。これ、『求菩提山縁起』が見つからなかったら、「永遠の謎」だったですよね。で、次です。これがあの有名な<熊野の神邑に到る。>。これが「立岩遺跡」です。「熊野神社」の所です。当然これ、あの紀伊半島の熊野じゃありません。ここに拠った兄磯城を滅ぼした時の熊野の神邑です。これを滅ぼした後にですね、<且ち天磐盾~>です。これも立岩のそばで熊野神社発見できなかったら、おしまいになってたでしょうね。


日本語から考えてください。「いわたて(磐盾)」、ひっくり返したら「たていわ(立岩)」です。そこに登って、そこに『射手引神社社伝』に残ってるように、天祖に東征成就を祈願なさったわけでしょ?だから、先程の写真にありますように、あの立岩神社の所まで登られた。で、ここをやっつけたから登ること出来たんですよね?


この短い中に、その『鞍手郡誌』に引かれた「射手引神社社伝」、福岡県のあちこちの神社社伝に残された神武東征の、まさしく筑豊のルートが、このわずか一文の中で「カット」されたんです。だから、「射手引神社社伝」が残ってなかったら、これも永遠の謎だったでしょうね。神武はどこをどう行ったのかいな?と。場所もわかんなかったでしょう。


ところが、この『鞍手郡誌』を発見したおかげで、神武さんがどこをどう通って行ったか全てわかったわけです。これがまず一つですね。本当に『日本書紀』、これだけだったんですよ。これで「改竄」わかりましたでしょ?この間にさっきの『鞍手郡誌』の地名を全部入れちゃえば、神武天皇の東征ルート全部完成するわけです。それで筑紫の凱旋があって、筑紫への凱旋があって、また筑豊に戻ってきて、香春で橿原宮を立てて即位された。


それが中国正史にいう「倭国」(やまとこく)の始まり、「邪馬台国」の始まり。西暦121年。みなさんは今、何とか私のことチラッと信用していただいたみたいですけど、普通これ日本の学者さんたち絶対認めたくないでしょう?自分の本、売れなくなります。「神武天皇架空説」、どうなるんですか一体。津田左右吉どうなるんですか、戦後史学の始まりの。これこそが全部「×」だったんですよ。で、私がとにかく何でじゃあ、その神功皇后の実在を信じて、まず何で神功皇后紀から始めたか?


それは私が「倭歌が解き明かす古代史」というシリーズをやるようになった始めなんですが、昨日久留米でも講演してきました。実はその久留米に関連してですね、最初に一番驚いたのが『万葉集』の4261番の歌でしてね。そこに<大王は神にし坐せば水鳥の多集(すだ)く水沼(みぬま)を皇都(みやこ)と成しつ>という歌があったんですよ。すなわち、「水沼の皇都」という文字があったんです。


で、「水沼」って何だ?っていうと、雄略紀に「水間君」(みぬまのきみ)が出てきます。で、久留米の辺りを昔は「三潴郡」(みずまぐん/みづまぐん)って言ったんですよ。あ、あそこだと。つまり、「三潴郡」に、ある時の天皇さんが都をお建てになったっていう歌なんですよ。<水鳥の多集く水沼>ですから、当然「湿地帯」です。で、久留米の辺り、昔は「三潴郡」って言ったんですから、「水沼」です。あそこ本当に。


じゃあ、この歌一体何を意味するんだろ?と思って行ってみたら、その大善寺玉垂宮さんに、『絹本著色玉垂宮縁起』(*訂正済)という中に神功皇后の三韓征伐の図があったわけです。あぁ、神功さんここにいらっしゃったと。もう、ここから始まったんです。じゃあ、神功さん「架空」じゃないじゃないかと。それで神功さんを調べて今度は筑豊のあちこちの神社を巡っていったら、今度はそこで今度は神武天皇さんにぶつかるわけです。