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2017年10月24日

#006 「神武は筑豊に東征した」2012.8.5 菊池市講演 福永晋三 [1時間35分~1時間40分]

一つは何の但し書きもない『後漢書』があるんです。で、次に我々がよく知っている5世紀の南朝・宋に仕えた范曄(はんよう)という人が書いた『後漢書』があるんです。それからもう一つ謎の、まだ私は見たことないんですが、魏の牧魏(もくぎ)の『後漢書』というのがあるんですね。これがその『翰苑』の高句麗伝の中に、注の中に3種類の『後漢書』出てくるんですよ。で、その何にもない、但し書きのない『後漢書』が実は「謝承の『後漢書』」らしいんです。


つまり、何を言いたいかといいますと、陳寿が書いた「謝承の『後漢書』」という、つまり「陳寿の前に書かれた『後漢書』」が、その太宰府天満宮に残された『翰苑』という書物の中に見事に残ってるわけなんです、一部ですけど。そして、あの肝心の倭国のところ、<鎭馬臺以建都>(馬臺に鎭して以って都を建つ)という一説があるんですがね、倭国の条に。そのところにですね、実はですね、それがあるわけなんですよ。ちょっとお見せしましょう。これなんですね。


これ、三韓の所ですが。で、ここに<(*不明)>とあって、ここにですね、「東鯷国」、「鯷」の字があるんですね。で、こっちの方にちょっと倭国があるんですが(*省略)。この但し書きのない『後漢書』というのが、実は「謝承の『後漢書』」、250年ぐらいに編集されたらしいですがね。したがって、陳寿の書いた『三国志』より「前」なんですよ。(*省略)


で、その中のその、つまり陳寿の書いた倭国のところにですね、実は「邪馬臺國」とは書いてないんですが、例の<治邦臺>(邦臺に治す)ということと、原文自体に「臺」という字が使ってあるんですよ。したがって、南宋の版本の「邪馬壹國」の前に実は『後漢書』の「臺」、「邪馬臺國」という表記がやっぱりちゃんとあったわけなんです。だから、范曄がやっぱり5世紀に『後漢書』を作った時には、その「謝承の『後漢書』」を真似して、やっぱり「邪馬臺國」と書いたと。


で、実は陳寿も『魏志倭人伝』において、やっぱ「邪馬臺國」と書いてあったと。まぁ、こういったことがわかってきたわけなんですね。そして先程言った「蕗の薹」、それから「薹が立つ」の「薹」。これがその「邪馬臺」の「臺」という字に草冠を乗っけた字。それはわかるわけなんですね。更に言いますとですね、(*省略)そうしますとね、もう一つ。実は『日本書紀』の景行紀の中に、<夜摩苔波區珥能摩倍邏摩>(倭は国の真秀〔まほろば〕)という歌があります。


その「夜摩苔」(やまと)の「と」のところに使ってあるのも、実はこういう「苔」という字なんですよ。やっぱり「台」という字、音符が入っていながら、これ、『日本書紀』では「ト」という音仮名なんです。音仮名なんです。それから、もっとみなさんに言いますと『万葉集』で最も有名な万葉仮名にこれ()がありますね。この字から出来た仮名、何ていう字ですか?もうご存知ですね、カタカナ「ノ」。ひらがな「の」です。ですよね?


だから、これ辞書引くと簡単なんですが、実は呉音「ナイ」、漢音「ダイ」なんですよ。そうしますと、古い中国語、つまり本当に「邪馬臺国」があった頃の中国語はですね、[-ai]という母音とですね、[-o]という母音が、どうも交替するらしいんですよ。で、それを決定付けるのが、我々がよく知るこの字なんですよ。はい、これが「能(ノウ/ドウ)」なんです。ところが、これがこうなると何て発音ですか?「態(タイ)」でしょ、ほら?これがあるんですよ、これが。とすると、250年の謝承さんが書いた「邪馬臺國」(やまだいこく/やまどこく)。ほら?「ヤマト」の国ですよ。