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2017年10月23日

#006 「神武は筑豊に東征した」2012.8.5 菊池市講演 福永晋三 [1時間30分~1時間35分]

で、後の学者たちが、それは当てずっぽうでいい加減だっていうことで、那珂通世さんの説を排斥したんですが、実は那珂通世さんの説が一番正しかったみたいです。私はもう書いてある通り、辛酉の年、57年の後、238年の前、卑弥呼さんの前に男王が七、八十年を考えたらそれは辛酉の年はもう「121年」しかありえないと。これがだから、『魏志倭人伝』に「それが邪馬台国の始めだ」って書いてあるんですから、神武さんの始めた王朝が「邪馬台国」なんでしょ?


これも日本で初めて言いました。『日本書紀』に、「邪馬台国成立」書いてあるわけです。「辛酉の年」です。「121年」です。その前の国が中国正史にいう「倭奴国」(いぬこく)です。「漢委奴国」です。「倭奴国」を倒して「邪馬台国」が成立したんです。これがわかってきたわけなんですね。で、じゃあじゃあ何で神武さんが建てた国が邪馬台国って書いてあるのか?というと、これが今度は中国語の漢語音韻学の話になるんですがね。「台」というのは旧字で複雑な字書きますよね?


なかなか難しい字です。実はこの「台」の旧字()に草冠を付けると何という字かご存知ですか?「蕗の薹」(ふきのとう)って知ってます?女性にとって対して失礼ですが、「薹が立つ」って言葉、ご存知ですか?あの「薹」(とう)の字ですよ。いや、今私大事なこと言ったんですけど?あれ「蕗の薹」であって「薹が立つ」なんですよ。もう一回いきますよ?「台」の旧字()の上に草冠が付けてあるんですよ?じゃあ、漢字の法則からいったら、本来は「臺」(だい)という字が音符なんですよ?


音を表すんですよ?ところが、草冠が付くと「トウ」って発音するんですよ?ということは、我々が今の常用漢字では知らないけども、『魏志倭人伝』、あるいはその前に私が抜き出しました「謝承の『後漢書』」という、これは三国時代の魏と対峙した呉の国の孫権という王がいましたね、その孫権の第一夫人が「謝夫人」ち言うんですよ。あの「感謝」の「謝」という字を書きますがね。その謝夫人の弟に謝承、「承諾」の「承」という字を書いて「謝承」(しゃしょう)っち言うんですけど。


この人物が『後漢書』130巻を著したって、『三国志』魏志倭人伝を書いた陳寿(ちんじゅ)が、その「謝夫人」の所にちゃんと書いてるんです、一行。弟の謝承が『後漢書』130巻を著したと。その『後漢書』がですね、唐の時代までちゃんと残っていたらしいですよ。とすると、あの古田武彦さんが南宋本に「邪馬壹國」(やまいちこく)って『三国志』書いてあるから、じゃあ元々は「邪馬壹国」だったんだと。


まぁ、そういったことで、あの人は「やまいちこく、やまいちこく、やまいちこく」と言って、「邪馬台国」はなかったっち言うわけです。だから、これが大失敗だったんです。で、もう一つ。太宰府に残されていた『翰苑』(かんえん)という書物があるんですね。で、これはやっぱり唐の年間に出来た中国の歴史書みたいな物なんですがね。そこに四六駢儷文の本文があって、それに雍公叡(ようこうえい)という人が注を付けたという本があって、で、これの「東夷伝」の部分、まさしく東夷・倭国が入ってる所なんですけどね。


その部分だけが、本家の中国で無くなってしまったのに、日本の太宰府天満宮に残されていた世界でたった一冊の本があるんですよ。これ、吉川弘文館が記念として出版していて、今、古本屋さんにありますけどね。安い方は1,500円で売ってます。これはね、絶対買われた方が良いですよ。そこの中に実は『後漢書』というのがですね、注に引かれるんですが、その唐の時代の『後漢書』には実に「3種類」あるんです。