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2017年10月20日

#006 「神武は筑豊に東征した」2012.8.5 菊池市講演 福永晋三 [1時間25分~1時間30分]

これが元々は「鳥野」、それから「鳥見野」ということで、ここが鳥見野と呼ばれた場所で実際にここで神武さんが最後の決戦をしたと思われる場所なんですね。で、この近くにまたこの神社伝承誌に出てくるところの、あちこちの神社が出てまいります。だから、ここが最後の決戦地だったみたい。だから、先程申しましたように昭和、戦前の145年か17年かに調査された神武の伝承地がですね、2割ぐらいしかわかんなかったんですがね。


ところが、私がこの福岡県で「神武は筑豊に東征した」という、地域の神社伝承を全部訪ね歩いていった時に、実に9割近くの土地がこうやって現在の地名に残されてるわけです。もう驚きました。そして、一番大事なことは筑紫に凱旋した後に、神武さんは再び筑豊に戻ってきて、最初に紹介した写真の通り、畝傍山の東南に橿原宮を建てられた。そこで即位された。それが辛酉(しんゆう)の年だって言うんですよ。辛酉(かのととり)の年。そうした時に、先程のもう一回「倭奴国」に戻りますよ。


「倭奴国」、倒したんでしょ?倭奴国を倒して先程の地図にありますように、こういうですね、福岡県ほとんど含めて菊池辺りまでの、こういうですね、少しミニマムになりますけど、こういう国を立ち上げなさったわけですよね。始められたわけですよね。この今山の石斧文化圏と立岩式石包丁の文化圏を、すべて神武さんが一人で掌握されたわけです。何せ、本家倒しちゃったんですから。


分家が本家を倒しちゃって、西は筑紫から東は豊前、南は菊池の辺りまで、これすべてを領有されたのがどうも神武さんです。これがどうも「神武東征の本質」のようですね。こうして当時の、弥生時代、西暦121年頃ですけど、こういう北九州の、一応、「統一の王国」がつくられたと。で、これがですね、で、なぜその西暦121年、まぁこれが中国の暦の辛酉に当たるわけなんですがね。もう一回いきます。倒したのが「倭奴国」でしょ?で、この倭奴国が金印貰ってきた年が、西暦57年です。


そうですよね?西暦57年ですよね。次です。もう一つ、絶対年代わかるのがありますが、卑弥呼さんが、卑弥呼が魏に使いを送ったのが、238年です。ただ単純計算です。57年から238年の間の辛酉の年って言ったらいつか?というと、二箇所しかないんです。121年と181年しかないんですわ。これだけです、根拠。と、『魏志倭人伝』の中で、卑弥呼さんが魏に使いを送ったのが238年。


で、その『魏志倭人伝』の中には、倭国が大乱があったと書いてありますでしょ?で、卑弥呼さんは共立されて女王になったわけですが、卑弥呼さんの前は「男王」がいたって書いてありますよね?男の王がいたって。その男の王が、とどまること七、八十年。八十年は男王だったっち言うんです。としますと、その八十年を計算に入れて、238年に魏に使いを送った、倭奴国は57年に金印を貰ってきた、じゃあ121年と181年のどちらが神武即位の年に相応しいですか?と言ったら、もう二者択一。


121年」しかないんですよ。これが私の「神武即位121年説」なんです。だから、紀元は二千六百年をここで覆したわけです。121年だろうと、即位は。そしたら、卑弥呼さんは当然神武から数えて八十年後に即位して、それからまた何年後かの238年に魏に使いを出したと。これで年数ピッタリ合いますよね?こういう実年代を計算したのが実は私が初めてじゃなかったんです。


で、やっぱり通説の方でも那珂通世(なかみちよ)さんという学者さんが、やっぱり神功皇后紀に外国の史料が書いてありますんで、その外国の史料と一致する年から遡っていった時には、大体神武さんが即位したのは弥生時代の100年前後だろうっていうことを、那珂通世さんが大雑把に推測されたわけですがね。