ページ

2017年10月18日

#006 「神武は筑豊に東征した」2012.8.5 菊池市講演 福永晋三 [1時間15分~1時間20分]

「目」の「尾」っぽと書いて、これ「目尾」(しゃかのお)と読ませますね。難読の地です。目尾です。この「目尾山」に登るという記録が『射手引神社社伝』にあります。これからまだ神武東征のコース続きます。もうしばらくお付き合いください。それから、ここから今度は「鯰田」(なまずた)に行くんですね。(*省略)何かあちこちあちこち行くんですね。何か一通りのルートじゃないんですね。本当にこれで良いのかな?と思うくらい。


ここ、だからもう「鹿毛馬」「佐與」「烏尾」、この辺りから何か知らんけど、グルーっと時計と反対周りで行動してますね。神武さんね。で、これが書いてありまして、次が「鯰田」でしょ?これが『射手引神社社伝』には沼田と言う、天皇が遠賀川を渡ることに悩んで大迂回を行いなさった所って書いてあるんですね。それから次が「勝負坂」です。(*省略)で、またその「鯰田」から戻るような格好で、さっきの「目尾」のすぐ下に「勝負谷」がありますね。


「目尾」の真下に「勝負谷」がありますね。そうなんですよ。それで次が「立岩」なんですよ。で、この「立岩」においてですね、神武天皇さんはここで実は「兄磯城」を滅ぼすわけでありますね。で、その兄磯城のいた所が他でもない「立岩遺跡」だと思われるんですよ。だから、「立岩遺跡」は神武さんが滅ぼしたことによって、その時埋まって、そしてこれがあろうことか、また昭和8年に発掘されたわけです。だから、実は伝承に残ってたんです。立岩遺跡。


だから、この立岩にいた人たちは120年頃に神武さんに滅ぼされてるわけなんですよ。だから、あの遺跡埋もれてしまって、昭和8年にまた発掘されたということなんですね。だから、「伝承が先」です。で、やっつけた後に天皇はこの天祖に祈願をなさった所っち言うわけですね。(*省略)ここの「立岩神社」とありまして、その下が実は「熊野神社」です。立岩遺跡のすぐ上にあります。最初にお見せした地図のように、遠賀湾というのがずーっと入ってきておりまして、飯塚辺りに。


で、この立岩神社、立岩遺跡が出てきた所、熊野神社の所がまさしく海に突き出た「熊野の岬」になっております。だから、みなさんが記紀で今までの通説で教わった「熊野」の上陸というのは、「飯塚の熊野神社」の所の上陸なんです。もし、お暇があったら新飯塚の立岩遺跡の熊野神社に行かれてください。あそこ、小高い山の上です。その更にまた500メートル上の所に「立岩神社」があります。


そこで兄磯城を滅ぼしたと思われる神武さんは、この立岩神社のこの岩の上に立ってですね、これから先の東征が最後まで成就するようにということを祈られたっち言うんですね。したがって、この天祖はあくまでも「ニニギノミコト」を指すんでしょう。ここで祈られたっち言うんです。だから、これがやっぱり面白い所でしたね。で、ここに実は「熊野」が出てくるんですよ。


その次に今度はまたあの遠賀湾、遠賀川を渡るんですね。「徒歩渡」、「王渡」(おうわたり)とかいうのがあって、それから「鉾の本」っち言うのがあるんですね。で、<豪族八田彦皇軍を奉迎、遠賀川を渡河された故名>と書いてあるんですが、飯塚歴史資料館の館長さんにお伺いしたところ、もう「徒歩渡」「王渡」「鉾の本」という字名は今のところ見当たらないと。


どこにあるかもわかんないと。で、「勝負坂」はちゃんと残ってたんですよ。勝負坂は。これがすごいですね。今もあるんです。自動車の、車の道が通ってるんです。で、勝負坂という所。こういう伝承と地名があること自体が、もう本当不思議ですね。「片島」(加多之萬/堅磐)、これもあります。「片島」です。今ここに「若宮八幡」があります。で、ここで皇軍が再上陸をしたと言うんですね。で、先程の今度は「撃皷神社」、これも幸袋ですね。(*省略)