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2017年10月2日

#006 「神武は筑豊に東征した」2012.8.5 菊池市講演 福永晋三 [1時間~1時間5分]

もう通説通りだったら、あれはもうゲリラ軍しか、ゲリラ戦しか展開できないわけですよ。それが(*省略)相手の大将の名前も出てくる大軍隊と戦って勝つんですよ?神武は。ものすごい「矛盾」だったわけです。戦略的に「あり得ない」。ところが、こっちの福岡県の神社伝承誌では明らかに筑紫に帰って、もう一回軍隊3年も4年も編成しなおして、鍛えなおして、そして宇佐へ回って英彦山に登って、そして求菩提山に行って、八咫烏に道案内受けて、そして堂々と大軍隊で攻めこむわけです。


戦略上、「確か」でしょう?「伝説」じゃないですよ。「架空」じゃないですよ。誰ですか、神武架空なんて言ったのは?「津田左右吉」。何言いようとか?っつな感じ。福岡県にちゃんと神社伝承に生きとるやないか?と。で、その神武さんが立ち寄った所に、もう全部宮があって、その宮々に全部伝承残っとるとですよ。それを私全部調べまわったんです。全部行きました。後で紹介しますけど、はい。で、こうやって八咫烏の案内を受けて、まず「天香山」を彦山川水系をとにかく下って、まず奪取すると。


そこにだから、「男坂」とか「女坂」とか、それから炭火を起こしてとか「墨坂」とか出てくるんですよね?『日本書紀』には。詳しく出てきます。その坂がたくさん存在するのも「香春」の土地です。で、向こうの天の香具山、さっき写真見たでしょう?まわり「平地」やないですか?どこに「坂」があるんですか?あの山自体が150メートルしかないです。どこの軍隊と戦ったんです?どこに、あそこに「坂」があるんですか?あれは「奈良平野・盆地」です。「ない」です。だから、「全然合わない」んです。


だから、日本でもその戦前の昭和156年ですかね。あの時に神武東征に関する、あれはやっぱり戦前は「神話」じゃなくて「本物」だって信じよりましたから、学者たちが一斉に束になって各日本書紀の神武天皇紀に残る地名あちこち探しぬいたんですよ。ほんで結局「8割」わかんなかったんですよ。わかったのは(*不明)とかね。あれくらいだったんですよ。後はもう全部「孔舎衙」もどこも何もわかんなかった。何もわからなかったんです。


で、私、今回この本に、ここにもう出しとりますけどね。もう、実に『日本書紀』に出てくる地名の「9割」全部当てなおしたんです。比定しました。出来たんです、福岡県に当てはめていったら。はい、後でまた証明してみます。さぁ、そうやってですね、そこに今度は6ページに地図がございますね。で、その天香山を奪取した神武天皇はですね、再び彦山川水系をまたその今度は英彦山の方に少し逆戻りしましてね。で、今度は遠賀川、嘉麻の水系に今度は移りましてね。


今度は嘉麻水系、遠賀川水系を北上して、いよいよ鳥見(登美)の「長髄彦」の本拠地へと進軍を開始していったらしいですね。その神社伝承がですね、全てですね、そのこれから紹介します『鞍手郡誌』という中に紹介してあったわけなんですね。さぁ、そこで肝要の一節をちょっと紹介しておきます。(*省略)それで、いよいよここですね。(*省略)「『鞍手郡誌』の神武東征」というところですね。(*省略)この『鞍手郡誌』のところに引かれたところで、これは帝王山ですね。(*省略)


<(英彦山)山頂から右されたか左されたか……それにはこんな古記録がある、即ち<<天皇方(まさ)に中州に遷らんと欲し日向より發行し給ふ。(中略)>>出発地はやっぱり筑紫の日向ということで、日向峠辺りだと思われます。で、<<~陸路将に筑紫に赴かんとし給ふ時、馬見物部~>>実は「馬見物部神社」というのが飯塚市の南、山田市の所にありますね。


<<~の裔駒主命眷族(けんぞく)を率ゐ田川郡吾勝野(あかつの)に迎へて足白の駿馬を献じ、因て奏して曰く、是より應に導き奉る可し、宜しく先づ着行すべし、臣が馬は野の牧場にして發行に奉るなり>>>というのが、これが飯塚市にあります「撃皷/撃鼓神社」(げきこじんじゃ)のご縁起にあります。