で、私、二回目行った時にはこのページ、別のページ開いてたんですよ。そら意味がないと。ここ出しといてくれと。これが求菩提山の意味やって言って、今もこれ出してもらってるんですがね。で、幸いなことには私の方に知り合いがおりまして、館長さんとの。で、これ最初の4ページ直接、一次コピーで貰ってます。もし欲しい方あったら二次コピーお渡しします。だから、すごいこと書いてあったんですよ。で、これまだ続きがありましてね、その次がまたすごいんですよ。
こうやって最終的に八咫烏は道先案内をしたことによって、神武さんが東征に成功しますね。成功した時に褒美として領地貰うんですよ。当然、この辺りなんですけど。福岡県または豊前の国なんですけど。で、この八咫烏一族は要するに「倭奴国」の生き残りなんですよ。倭奴国の生き残り。その倭奴国の生き残りがですね、これまた九州王朝の考え方からいって面白いんですよ。次のページのところがですね、「人皇27代」って書いてありますでしょ?「継体天皇」です。
はい、歴史に強い方、継体天皇って「27代」ですか?福岡県の神社はすごいんですよ。はい、継体は何代でしょう?はい、実は『日本書紀』、「26代」です。26代です。で、私は東京で神功皇后紀を読む会っていうのやっております。一番最初は神功皇后紀を読むことから始めたからです。その神功皇后紀を読んでる時に一つの「不思議」があるんですよ。中国は北宋ですね、あの(*省略)960年、10世紀に興きた宋ですね。あの宋の時代に『新唐書』が作られたりするんですがね。
で、この時にですね、宋の時代に、東大寺のお坊さん「奝然」(ちょうねん)という人が、我が国の『王年代紀』という物を中国の朝廷に差し出しまして、で、これを基にですね、『新唐書』とそれから『宋史』という正史に日本の天皇家の歴代がずーっと書かれているわけです。その中にですね、「15代」が違うんですよ。「応神」さんじゃないんです。15代は何と、「神功」さんです。で、「神功天皇」って書いてあります。もう一回行きますよ?
当時の平安時代になりますか、960年、ぐらいですね、はい。東大寺のお坊さんの奝然が持って行った『王年代紀』には、どうやら「第15代神功天皇」って書いてあるって話。『日本書紀』はもちろん「神功皇后」です。だから、応神が「15代」になっちゃいます。ところが、その『王年代紀』では「15代神功天皇」です。そうやって数えていったら、継体は当然「27代」なんです。だから福岡県のですね、神社伝承すごいんですよ。だから、神功さん以降は一代ズレるんですよ。
そういう伝承が福岡県の神社誌にはいっぱいあるんです。で、私も福岡県神社ずーっとまわりよって、何でこんなに代の数が一つずつ違うんだ?ってずーっと思ってたんですよ。そうしたら、あろうことか、中国の歴史書にちゃんと書いてあるんですね。「神功天皇」って。で、もっと面白いことには、みなさんあんまり能狂言にはご興味ないかもしれませんけどね、で、これは数年前でしたかね。
箱崎の方で、筥崎(はこざき)八幡ですかね。あそこで100年ぶりか何年振りかにですね、その神功皇后をテーマにした能が、能の演目がやられたんですよ。で、これを東京で私、見に行きましてね、こっちの方でもやったっていうことらしいんですけど。その時に、これは口上ですよ、口上で「人皇15代神功こうぐう」という風に読み上げるんですね。変でしょ?「人皇15代」っち言うんですよ。ただし「神功天皇」とは言わないんですね。「神功こうぐう」って言うんですね。
だけどやっぱり能の世界では「人皇15代」に数えるんですよ、神功さん。これも驚きでした。だからそこで能狂言の世界と、この『求菩提山縁起』と福岡県の各神社伝承誌が全部合ってるんですよ。神功さん一代に数えるから。15代から後が全部一代ずつ福岡県の天皇さんの代ズレるんです。そして今言ったように東大寺の僧・奝然が中国・宋の王朝にもたらした『王年代紀』にもはっきり「神功天皇」と書いてあると。