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2017年9月25日

#006 「神武は筑豊に東征した」2012.8.5 菊池市講演 福永晋三 [45分~50分]

で、だから彼は、神武さんは宇佐から「英彦山」に行くんです。英彦山の方に。で、英彦山の同じ系列の山の中に「求菩提山」(くぼてさん)という山があるんです。その求菩提山に実は「烏天狗」、しかも「8人」の烏天狗がいるわけですね。それが次のページにあります、この写真です。求菩提資料館にあります。一番前に座ってるのが「大天狗」、名前が「豊前坊」です。そのまわりが所謂「烏天狗」。これが実は神武天皇紀に出てくる「頭八咫烏」(やたがらす)


多分、「八人(やたり)の烏」って言ったと思うんですがね。烏天狗、ピッタシ「8」でしょ?で、佐賀県にも「八天社」なんてのが、「八天神社」なんてあります。あれもみんな烏天狗です。ここの烏天狗です。で、この隣に座ってる古川さんに案内されて、実は久留米にも烏天狗いるよって言われて、ハァ?って言って連れていかれたら、御井寺の山門に烏天狗の像がドンっと置いてあった。私それでそれを見せてもらって初めてわかったんですよ。


だから、神武さんは筑紫にいる時に、西の偏にいる時に常に耳納山(みのうさん)、久留米辺りの烏天狗の一族と連絡を取っていて、本家は求菩提山の方におるよということをやっぱり知ってたらしいんですね。それで宇佐から回って、英彦山越えて求菩提に行くわけですね。その求菩提山の所に行きましたら、『求菩提山縁起』があるんですよ(*省略)。そうしますとね、そこ漢字出ておりますように、ここにトンデモナイ史料があったんですよ。三行目の一番下の所ちょっと見てください。(*省略)


<或る人説きて曰く~>です。<~天地開闢、神代巳に終り~>そこの次見てください、ほら?<~神武天皇鋒端を揺らし、~>槍ですね、槍の先を揺らして、そして<~中国(なかつくに)を平らげ、~>これが中州国、「豊葦原中州国」の意味の「中国」だったらしいです。『求菩提山縁起』は江戸時代に書かれた物ですけども、非常に古い文留めているみたいです。で、これを訓読した人は結構新しい人で、江戸時代の人で、この原文の元の意味がわかんなかったらしいですね。


この<~中国(なかつくに)を平らげ、~>そして次の五行目の上の所、これ線引いてください。そこに字がちょっと変わります。「威力」の「威」になっておりますが、これが「威奴邪神」(いぬのじゃしん)です。「ニギハヤヒの国」、「漢委奴国」の「威奴国/倭奴国」です。ここに出てくるんです。その<~威奴の邪神を撥はしめ、~>でしょ?そして、<~九州を政(おさ)めんとす。~>ですね、はい。


で、<~此の嶺に到りて天神地祇を斎(いつ)き祭り、僂(しばしば)龍駕を立てし所を狹野嶽と曰ふ。~>、ほら?ここに「狭野」があるんですよ。求菩提山のことを昔「狭野嶽」って言ったんです。で、そこに書いてありますように、<~天皇の尊號の故なり。>ってありますでしょ?もう、これを見つけた時に小躍りしましたね。あぁ、神武さん求菩提山来たんだと。英彦山来たんだと。


で、大天狗さんと八咫烏さんたちと話して、で、道先案内してくれって言ったわけでしょ?これから八咫烏一族が英彦山方面から、さっき最初の第一次東征で遠賀湾から攻めて失敗したわけでしょ?で、今度は日を背にして、まさしく倭奴国の都を今度は西に置いて戦うわけでしょ?で、神武さん当然西の偏に生まれてるわけですから、英彦山とか求菩提山とか、そっちの方面から直方の方、あの遠賀湾の方に下るという道筋知らないわけですよ。


だから、それを知っている倭奴国の本来一員である烏天狗さんに「同盟」を求めて、そして道先案内やっててくれんか?と。そこで行った場所が「狭野嶽」なんですよ、「求菩提山」。だから、この伝承すごかったです。だから僕は、求菩提の資料館の館長さんに「これはもう、ものすごく貴重な資料やから、大事に取っといて、いつもここ展示しといてくれ」と言った。