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2017年9月19日

#006 「神武は筑豊に東征した」2012.8.5 菊池市講演 福永晋三 [25分~30分]

こうやって出来上がった国が、実はみなさんがよくご存じの「志賀島」で発見されたという、あの「委奴国」(いぬこく)。「漢委奴国」。「漢の委の奴の国王」じゃないです。で、どっかの内倉さんという人が言ったように「イド」とかですね、あんな読み方じゃないです。あれ「かんのいぬこく」です。「呉音」で読まなきゃいけないんです。「いぬこく」です。この国が紀元前14年に出来上がったっち言うんです。これがですね、私が初詣を繰り返した旧鞍手郡宮田町、福岡県の。


今、宮若市って言いますけどね。そこに「天照宮」っていうお宮さんがあって、このニギハヤヒ祀ってあるんですよ。で、そのニギハヤヒノミコトさんが、その宮田町と飯塚市の間にある「笠置山」に降臨したって伝承があるんです。それが垂仁天皇16年、これを換算しなおすと、実際の年代が紀元前14年なんです。紀元前14年にニギハヤヒノミコトさんが、この遠賀湾の所に降臨されたわけですね。


で、しばらくしてから、遠賀湾の東に陣取るスサノヲノミコトをやっつけて、それで北九州を手に入れるというお話なんですね。だから、これも事実なんです。これは「金印」が証明します。「倭奴国」という国が出来たんです、まず最初に。じゃあ、この神武さんは一体何者か?と言いますと、今そこに書いてありましたように、彼、「西の偏」です。福岡県の西の偏、つまり「筑紫国」に降臨したのが、ニギハヤヒの弟の「ニニギノミコト」なんです。


そのニニギノミコトの子孫にあたるのが、これが神日本磐余彦さん。だから、「西の偏」なんです。当たってるんです。だから、ここに書いてあるように、だから、「東」に行って都を造ろうというのは、他でもない、要するに分家といえば分家ですね、「弟」の家柄に生まれ育った神日本磐余彦さんが、「本家」ニギハヤヒノミコトの末裔の国、すなわち「豊国」を奪い取ろうというのが、これが東征謀議だということに気付いたんです。そこの「西の偏」当たってるんですよ。


これが博多湾、糸島の方面なんです。だから、糸島の方に実は「高祖宮」(たかすのみや)、あの漢の高祖とか、あの劉邦とかいましたね、あの「高祖」という字を書いて「高祖神社」というのがあります。そこに日向三代、特にお母さんの玉依姫が祀ってありますんで、神武さんは多分ここら辺りの生まれの人なんです。で、ここに生まれ育った人が、その「東」の豊国の方が栄えとると。あっちが「本家」じゃと。


で、皆さん先程お見せましたように、あそこに香春岳という「金」が採れて、「銅」が採れて、「鉄」が採れるという、「権力の源泉」のお山があるわけでしょ?あれを奪い取りに行くわけですよ。で、神武天皇紀の半分は、この天香山奪取のお話って言いましたでしょ?だから、「東」に行って都造ろうっち言うんです。だから、「本家」の国を奪い取ろうっち言うんです。これが多分、神武天皇紀の本質だったと思われるんですね。


もう、そういった話から始まりまして、従ってこれでもう中国の正史に出てきます、これで「委奴国」が今出てきました。この「倭奴国」本家を倒そうというのが神武東征の企てです。「東」に行くんです。だからやっぱり、神武さんは最終的に瀬戸内海渡ってないんですよ。福岡県止まり。福岡県の「西の偏」から出て、福岡県の「東」を乗っ取るわけです。まぁ、そういうちょっと少しミニマムなお話になっちゃうんですね。でも、それが「歴史事実」だろうと思われるんです。


はい、そういったことでありますね。ではこのページを繰っていきますね、そうしますと次のページ。ここまではみなさんのプリントにもありますね。で、そのニギハヤヒノミコトが降ったとされるですね、「天照宮」には、先程のその「天神降臨」を意味する、これが仙蹕ですね、さきばらい。こういう「御車(みくるま)の紋」というのが、この天照宮には残されているわけなんですね。


これはやがて平安時代には「源氏車」なんていう紋章なんですけど。これがだから、実は「天孫降臨の本質をあらわす紋章」なんです。つまり、「豊国」に「豊葦原中州国」に侵略した人の、これがその家柄の紋章です。御神紋です。さぁ、そうしました時に、そのニギハヤヒさん、「倭奴国」建てたと言いましたね?で、ここにあの有名な「立岩遺跡」から出てくる「立岩式石包丁」と言われますね。(*省略)