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2017年9月20日

#006 「神武は筑豊に東征した」2012.8.5 菊池市講演 福永晋三 [30分~35分]

これですよ、みなさんどっかでお目にかかったことがあると思いますが、「立岩」を中心にして立岩式石包丁の範囲、上の楕円形ですね。それから、ニニギノミコトが降臨したと思われる糸島半島の近く「今山」から出てくる石斧、石斧がございます。この文化圏が縦の楕円形ですね。これがそのニギハヤヒと弟・ニニギノミコトが韓半島の方から降臨してきまして、そして築き上げた、これが多分「漢委奴国」という、あの金印に示された「委奴国」の領土だと思われます。


ここの菊池がしっかり入っております。今山石斧文化圏です。だから、ここにも当然「稲作」があった。その「豊葦原瑞穂国」、中心は「古遠賀湾沿岸」になりますけどもね。菊池まで入っております。ここまでが、だから「稲作の一大文化圏」だったんですね。で、韓半島で腹を減らした連中が、とにかく自分たちの生き死にをかけて、それで豊国行きゃあ、とにかく飯が食えると。米があると。だから、命がけで侵略してくる。だからこれ、全部遺跡で残ってますでしょ?


だから、ニギハヤヒが十種(とくさ)の神宝抱えて、この地に降臨してくるわけですよね。で、神武さんはこの内の今山石斧に見られるような、こっち側の西の偏のニニギノミコトの子孫であったということが歴史的にも、こういう風に考古学的に位置付けられるわけです。見方を変えたら簡単なことだった。この国で東征が行われるわけです。西の偏から東を乗っ取るんです。まぁ、そういったことを『日本書紀』から、こういう考古学上の遺跡の分布から確認をしていったわけなんでございますね。


はい、それではその次ですが、この中で有名なですね、「東に行って都を造ろう」という風に神武が言いますとですね、<諸の皇子對へて曰はく、「理實(ことわり)灼然(いやちこ)なり。 >って言うんですよね。で、この「灼然なり」ってのは、これまた面白い言葉でしてね。みなさん大分県のあれは蕎麦焼酎でしたっけ、麦焼酎でしたっけ?「いいちこ」ってございますね?「いいちこ」。あれ、そうなんですよ。だから、「豊前の方言」なんですよ、「いいちこ」。「灼然なり」。


で、現地ではどういう意味かというと、「良いことだ」っち言うんです。「もっともだ」っち言うんです。だから、「いいちこ」ってのは、だから、「良い酒だ」っていう意味なんです。だから、文脈から言ったら簡単でしょ?「東に行って、都を造ろう」、「あぁ、もっともだ。良いことだ」って皇子たちが言ったっちいう。これ、通説の解釈、例えば岩波の日本古典文学大系なんかご覧になってください。


全然意味が、わけのわかんない解釈してますから。これ、簡単です。大分方言、豊前方言。「もっともだ」。実に簡単ですね。これが現地でわかるんですよ。だから、いよいよ本当これ「現実」でしょ?あの当時の言葉、今でも残ってる。大分の焼酎、銘酒「いいちこ」です。まぁ、そんなこともですね、こっちの久留米で講演したりした時に地元の人が教えてくださるんですね。


はい、それでそのニニギノミコトを祀る神社さんが糸島半島にはいっぱいありますが、糸島半島には逆にそのニギハヤヒノを祀る神社がないんですね。そのニギハヤヒを祀る神社が、私が初詣した、その宮田磯光の「天照宮」しかないわけなんでございますね、はい。これでその神武さんがですね、西暦の(*省略)116年ぐらいになりますか、それくらいにですね、実は「第一次東征」を開始するわけなんですね。


で、この時にみなさんが多分覚えていらっしゃるようにですね、実は神武さんはですね、あのさっきの地図、2ページの地図にありましたように、(*省略)そこの下の地図、先程もお見せしましたように、実はその糸島半島の辺りから出発しまして、そして実は「古遠賀湾」に直接入りましてね、そして、そこにニギハヤヒの末裔と思われる「鳥見/登美(とみ)の長髄彦」って言うんですがね、その鳥見の長髄彦の都、それが「豊葦原中州国」になるわけなんですよ。