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2017年9月14日

#006 「神武は筑豊に東征した」2012.8.5 菊池市講演 福永晋三 [15分~20分]

そこが多分、『日本書紀』に書かれた畝傍山の東南の「橿原宮」だと思われるんですね。だから多分、「鶴岡八幡宮」さん、掘れないでしょうけど、掘ったら「神武の橿原宮の跡」が出てくる可能性があるんじゃないかと思っとります。それに対してですね、これが今度は香春一ノ岳を「畝傍山」と比定しますと、その「東北」に神武さんは埋葬されたという記録が書いてあるんですね。畝傍の東北陵です。


そうしますと、この香春一ノ岳(畝傍山)の「東北」に、冗談抜きに「おほきんさん」という、昔ながらの弥生時代の円墳があるわけです。で、「おほきん」というのは多分「おほきみ」ですから、漢字で書けば「大王」です。土地の人に「大王さん」て呼ばれてるお墓があるんですね。これは秦の始皇帝陵と同じく、「固有名詞のない大王」の墓です。だから、これこそが「本物の神武天皇陵」ではないかと、私がこの国で初めて言ったわけですね。


多分もうみなさんこのあたりで、この男一体何言っとんじゃ?と思われてるでしょう。こういうのが香春の土地にはたくさんあるわけです。「宮」と「お墓」があるんです。あの香春一ノ岳が「畝傍山」で、香春三ノ岳が「天香山」であると神武天皇紀はそういう風な復元が可能になるんじゃないんか?ということで、今そこのプリントの1ページの題名にありますね。「神武は筑豊に東征した」で、実は「神武天皇紀」復元の一試行、ドン・キホーテです。


『日本書紀』をもう一回改竄された前の姿に戻してみようじゃないかって言うんです。これ、やらかしちゃったんです、とうとう。出来上がっちゃったんです、しかも。それを今日、みなさんにお話ししたいと思って持ってきたわけですね。(*省略)それでは最初のページはみなさん、そこにちょうどある通りですね。それでその『日本書紀』をですね、もう一回初めからですね、段落に区切って、その段落をしかも時系列を元に戻すというか、復元するという考察をやったわけなんですね。


すると、神武東征の一番最初はですね、そこの1ページに書いてありますように、東征謀議これが多分本来の一番最初の部分だろうと思われるんですね。出だしを読んでおきましょう。これが多分、神武天皇紀を復元する時に最も役に立つ部分だと思われます。<神日本磐余彦天皇、諱は彦火火出見、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の第四子なり。(*省略)母は玉依姫と曰ひ、海童の少女(むすめ)なり。天皇、生まれながらにして明達、意(こころ)(かた)し。年十五にして立ちて太子と為る。~>


で、みなさん何気なく思われてますけど、ここおかしいんですよ。だって、神武さんが「初代天皇」であるんだったら、ここで「太子」になるわけがないですね。そしたらもう既に、神武さんは前の王朝の太子・皇太子じゃないです。神武さんが「初代天皇」なんですから、ここで本当は「太子」になるわけないですね。


<~長じて日向国の吾田邑の吾平津媛を娶りて、妃と爲し、手研耳命を生む。年四十五歳に及びて、諸の兄及び子等に謂いて曰はく、「昔我が天神(あまつかみ)、高皇産霊尊・大日孁尊、此の豊葦原瑞穗国を挙(ことあげ)げして、我が天祖彦火瓊瓊杵尊に授けき。是に火瓊瓊杵尊、天の關(いはくら)(ひきひら)き、雲を披(おしわ)け、仙蹕(みさきはらひ)()ひて以ちて戻(いた)り止まる。是時に、運は鴻荒(あらき)に屬()たり、時は草昧(くらき)に鍾(あた)る。故、蒙(くら)きを以ちて正しきを養ひ、此の西の偏(ほとり)を治す。~>