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2017年8月25日

#005 「続・真実の仁徳天皇」福永晋三 [3時間~終了]

それは何になりますかね?何を測るんですか?


[質問者: 放射性炭素14年代…]


あぁ、炭素はダメですね。あれ、木片でも出れば良いですけどね、すぐ近くからね。


[質問者: そのあたり、だから何かあったら、すごく…]


そうですね、どっかで大量の木片でもあれば良いんですけどね。これがね、綺麗にね、石組みで粘土で覆ってあるんで、今のところ、出土した場所に木片があったという報告はないですね。


[質問者: 何かあればですね…]


ええ。ただ、記事が、記事に書いてある通りであるだとすれば、「西暦656年」なんですがね。わかると嬉しいですね。


[質問者: ええ。何か…]


もう、それだけなんですよ。それさえ出ればね、7世紀の築造だってことがわかれば、もう私の勝ちなんですけどね()


[質問者: 土器片なんかあれば良いんだけどねぇ。]


それも出ないんですよ。それも出ないんですね。だから、もし本格的にやるとしたら、やっぱり最低限あそこまで掘んなきゃいけないですもんね。これは大変なことなんですよね。だから、かつてその農民の方々が偶然にぶち当たった場所だけでもね、何点かこう点検してみるとね、面白いかも知れないんですが、そこで木片なり、土器片なり出ると、また面白いんですがね。出ると、本当は嬉しいです。そうすれば少しは年代がね、特定出来ますのでね。で、これで7世紀ってわかったら、もうこちらが本当に斉明の「狂心の渠」なんですよね。


[質問者:あの、九州倭王朝説で、非常に面白いんですけど、その時に例えば、奈良の方はどうなってるのかと。例えばですね、斉明天皇が37代天皇で、推古が33代ですよね。で、推古と言うとやっぱり聖徳太子がいる。私、いないと思ってたんですね。木片のあれでちょっと年代数探ってますけど。そのあたりが九州にどう繋がるかっていうのは、いかがでしょうか?]


えーっとこれはですね、私のにちょっと資料があるんですけど、(*省略)ここに「大和王朝の東遷時期」っていうのが書いてありますけども、天武天皇の頃までは間違いなく九州に倭の国があったということですね。その倭の国が東に移って、今の奈良県に移った。で、その時に私が一つの根拠に挙げているのが、この筑紫に一番多い「廃寺」と呼ばれるお寺さんです。で、奈良時代に特に最も仏教を大事な教えとした時代に、何で福岡県には「廃寺」があるのか?と。何で「木片の一片も出土しない」のか?と。だから私はここで福岡県、それから大分県、熊本県、それから佐賀県にあったお寺さんが全部「解体」されて、奈良、それから京都、つまり大和、山城の地に持って行かれたんじゃないか?と、「移築説」を採ってるんですね、やっぱり。で、あそこに書いてあるあの廃寺の時期が書いてございますでしょ?7世紀末から9世紀とか。これがだから「倭の東遷時期」だろうと。つまり、向こうですぐにお寺を造ることが出来なかった。だから、元々はこちらの倭王朝にあった有名なお寺を全部解体して、向こうに運んで、向こうで組み立て直した。それが例えば「法隆寺」であったり、「三十三間堂」であったり、etcであったりしたと。そういうことを言っとるわけなんですね。だから、律令時代において、あれほど仏教が大事にされたのに、何で福岡県ばっかりが律令時代になって「廃寺」ばっかりなんだ?と。これ初めて言ったわけです。で、私がもう一つ言ってるのは、3世紀、卑弥呼の時代に、近畿にあったのは実は「東鯷国」という、「東」に「魚」偏に是々非々の「是」を書きますが、東鯷国という「銅鐸文化圏」の王朝があったという風に言ってるわけです。で、4世紀になってそこから「神功天皇」が出発しまして、それで邪馬臺国、卑弥呼の末裔を滅ぼして歩いたのが、例の熊襲退治、綾杉るなさんが出した神功皇后の伝承地になるわけです。だから、何で神功さんは福岡県で大暴れしなきゃいけないのか?と。そうすると、古田さんの九州王朝論の最大の弱点はそこでしょ?何で神功さんは福岡県で暴れなきゃいけないんですか?って。ここが九州王朝だったら、何で神功さんにやっつけられなきゃいけないんですか、熊襲が?ってことなっちゃうんですよ。それを解き明かしたのが、あの神武天皇の「東征」に対して、私は神功天皇の「西征」っていうこと去年言ったんです。つまり、「銅鐸」の国が、「三角縁神獣鏡圏」の国に代わって、それで「後漢式鏡圏」、「魏鏡圏」の邪馬臺国を滅ぼした、武力統一したというのが私の大きな仮説なんです。これ、「倭国易姓革命論」って言ってますけど。だから、天皇家交代するんです。だから、九州においても倭の国は、万世一系ではなかったよって言ってるんです。それで天武天皇は、また向こうに行っちゃったわけです。で、こちらの久留米の大善寺玉垂宮さんに残る伝承の中に、『吉山旧記』っていうのがありますが、あれが途中で『薬師寺旧記』に変わるんですね。あそこに「薬師寺」があったんです。で、その薬師寺が天武天皇の時代にやはり強奪されて、解体されて、大和の方に運ばれちゃうんです、東の大和に。それで当時の、そこの当主たちが親子2代にわたって、その無念を忘れないためにということで、実は「謎の自殺」を遂げるんですね。それで残された人たちが、そのことの恨みを忘れないということで、「吉山」の姓を「薬師寺」に変えるわけです。で、『薬師寺旧記』として『吉山旧記』は残るんですね。だから、薬師寺は実はこの久留米の土地から、久留米の土地から奈良県に移ってるわけなんです。それで大善寺玉垂宮の所に残されていた塔身の心礎跡があるんですけどね、そこの円周と今の奈良の薬師寺が移る前の東寺、東の塔の、東塔の礎石の円周とが「ピッタリ一致」したんです。ええ。これは一応室伏の手柄なんですがね。悔しいことに、ええ。でも間違いなくだから、こっちのお寺さんが解体されて向こうに移ってるという一つの証拠が出たんです。だから今、大善寺玉垂宮さんは、その説が出た後に、その礎石を寺の、お宮の倉庫の中に入れくれています。ちょっと大事に保存しておいてくださいということで。確か「夜明」という場所で、これ拾われたそうです。ええ。それがあの奈良の薬師寺の東塔の心礎跡と円周がピッタリ一致したんです。で、兼川さんという人が新聞でこう折り曲げて、新聞紙を、で、円周にこうあてたんですね、残っている所に。それを向こうに持って行って、大芝さんがそこにあてて、それでぴったしサイズが合ったので、「合うでぇ」っていうこの名発言が残ってますけどね。だからやっぱりお寺が解体されて、東に引っ越してるんです。


[質問者: っていうことは、聖徳太子もこちらの方で仮説みたいな感じですかね?]


あぁ、多分豊国だと思いますよ。ええ。で、あちらに「豊日別」の宮がありましてね。あそこの中に残されてる豊日別文書の中に聖徳太子出てきます。推古天皇も、はい。


[質問者: 連れてってもらった所に、四天王寺様式の…]


だから「椿市廃寺」が、あれが間違いなく「難波四天王寺」だった所。「四天王寺」だったと思います。全く同じ伽藍配置なんですね。


[質問者: 礎石が…]


だから「椿市廃寺」が、今のだから、あの大阪の「難波四天王寺」になってるんだと思います。あれも本を正せば「福岡のお寺さん」です。はい。可能性が非常に高いと思ってます。だから、残されてるんですね。よーく(*不明)だから、何で律令制にだから、だから仏教盛んな時代に何で福岡県ばっかり「廃寺」なの?っていう、この問題誰も扱わなかったんですよ。ええ。で、瓦と礎石は重いんで向こうで作り直してあるんです。だから「木材」だけ持って行ったんです。


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