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2017年8月23日

#005 「続・真実の仁徳天皇」福永晋三 [2時間55分~3時間]

それから、仲哀の子供はやっぱり「麛坂王」(かごさかのみこ)と「忍熊王」がやっぱり正統だったと思います、はい。それであの、応神は、これはやっぱり「武内宿禰」が親という可能性高いですね。と申しますのも、これは例の「大鷦鷯」とそれから「木菟宿禰」(つくのすくね)の名前の交換という記事がありますよね?だから、あそこに天皇家の家系の謎を解く鍵があるのかも知れません。そこに関わるのは「武内宿禰」ですよね?


[質問者: 今日、一番の大きな話題になった大鷦鷯のですね、大鷦鷯尊の出自は金官伽耶の王子だったというような説もあるようですけども、その辺は…?]


えーっとですね、とにかく応神さん自身がですね、これが本当に中国正史に「倭王讃」だったとしましても、肥前の土地、それから久留米の土地にかけて、百済の王子が盛んにこっちに来てることは確かなんですね。それで伽耶の土地からこっちに人々が渡って来てることも確かですし、九州古代史の会の兼川さんが言う通り、大善寺玉垂宮の前を流れるのが、「ありなれ川」ですから、だから確かに彼の言葉を借りれば「あんちゃん()百済」、つまり沸流(びる)系百済の王系がこちらに居て、それから弟側の「おんちょ()百済」が、それが朝鮮半島の百済の国であったと。だから、あっちは「弟百済」の国ですね。だから、その可能性高いと思います。だから、後の天皇家が百済が唐・新羅に敗れると、再びこちらから軍隊送り込んで、やっぱり奪還しようとしたという、そのやっぱり天皇家の後押しがあれだけ深いということは、やっぱりこっちが「兄ちゃん百済」で向こうが「弟百済」だったという可能性ありますね。だから、そういった意味で今上陛下が「我々の、天皇家の血筋には百済系の血が入っている」という、あのご発言は、そういった意味では日本古代史とまた直結してるかと思います。はい。それは疑わなくて良いと思います。はい。


[質問者: ありがとうございました。]


[質問者: あ、すいません。ちょっと聞き逃したんですけれど、「呉中平雪穴」とおっしゃいましたけど、これは「呉中平」という場所の名前ですか?]


ああ、土地が「呉」って言いましてね、それで大坂山の中腹の平地の所にあるんで、「中平」と言います。ええ。ですから、香春に行って、町役場で観光案内図を貰いますと車で行けますから。


[古川氏: あの、仲哀トンネルの手前に「呉」っていう集落があって、左に入って行けばそこが行き当たります。]


[質問者: その「雪穴」っていうのは、雪を溜めたんですか?]


そうです。明治まで溜めてたそうですから、当時も多分溜めてあったんでしょう。それで夏になって気温で徐々に解け出す水を、下の排水設備から、下の田んぼにやっぱり流したんだと思います。だから、「渇水対策用」ですね。それから、「呉」っていう所は面白い所でして、「呉媛伝説」、中国から織媛が渡って来て、その内の一人が香春に住み着いてるんです。で、あそこに「呉媛伝説」が残ってます。あそこで「呉媛」がここでその布を晒したんだとかですね、染めたんだとかいう、そういう遺跡も残ってたり、今は綺麗に整備されています。


[質問者: よく「呉の太白」何とかがって言いますもんね。]


そうですね。


[質問者: それに関係あるのかなって、ちょっと思…]


当然南朝との交流の結果ですので、それはやっぱり南朝を指す、つまり当時の中国を意味する「呉」という名前が付いてるのは、それはごく順当です。はい。だから、雄略天皇の末期に出てくる話と同じです。はい。だから、あそこにも「呉媛」がいました。で、あれは三姉妹か四姉妹の内の一人ですね。それが香春の里に来てたという(*不明)があります。最初はあそこ行った時は私もう、「何でこんな所に呉媛の話があんの?」なんて、呑気に構えてましたけどね。だからやっぱり、あそこに天皇家があったということの、やっぱりあれも一つの証左ですね。だから、天皇に直接送られた「織媛」の一人があそこにいたということ、はい。だから、そういった意味では面白い場所ですので、ちょっとした公園にもなってますから、下の方は。あの、結構覗くと怖いですよ。結構デカいです。あんな明治の一家が造れるような物じゃありません。


[質問者: その暗渠で、泥で固められたということ…]


粘土ですね。石組みの周りを粘土で覆ってあります。


[質問者: で、先程先生おっしゃったような感じで、その年代、年代っつったら3世紀から、それっていうのは何かやっぱり(*不明)方法、例えば(*不明)法とかですね。]