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2017年8月22日

#005 「続・真実の仁徳天皇」福永晋三 [2時間50分~2時間55分]

あそこに武内宿禰が沓を残して昇天したという跡があるって、ありましたでしょう?私もね、あそこに行った時に最初にそこ見てね、「あれ?どっかで聞いたよね?」って。そう、天智天皇の話と同じなんです。天智天皇も沓だけ残して昇天したんですね。だから、あの京都の山科陵には当然のことながら、天智天皇の死骸はありませんよね。どう考えてもありませんよね?


ということはですよ、我々はあそこで大友皇子と大海人皇子が戦争して、戦をして、それで大友皇子が最後死んだということになってますけども、あの「織幡神社」に残る武内宿禰が沓を残して昇天したというのが、あれが主語が入れ替わって、あれが「天智」だったとしたら、どうします?だから、壬申の乱の直接対決は「天智vs天武」なんですよ?下手をすると。下手をすると。で、天智はあの戦に敗れて、あの玄界灘に面した織幡神社の、あの岬の突端から入水自殺をするわけですよね?


だから、「遺骸がない」んですよね?沓だけ残るっていうのは「入水自殺」の跡でしょう?普通に考えて。という、今恐ろしい妄想を働かしとるわけなんです。天智は天武に殺された。さっきの忍熊王の自殺がまた活きてくるでしょ?同じ土地で、同じ近場で、同じような事件が、同じようなクーデターが、何回となく起きてる。それこそがやっぱり古代倭の国であった…もう、遺跡もそろそろ証明してくれますよね?


後はみなさんが協力してくださって、この地元に残る伝承と遺跡と、細かく調査してもらって、で、どっかの大学の人動かして、せめて「狂心の渠」だけでも証明してもらったら、これでもう日本史の教科書は天武までは綺麗に、綺麗に書き換えられるんですからね?もう、そこまで来たんですよ。もう、通説なんかに負けませんよ。向こうには「狂心の渠」もない、「石垣」もない、「吉野宮」もない。あの「宮滝」の所にどんな「宮跡」があるっち言うんですか?


「礎石の跡」すらないですよ。あるんですよ、こっち。これだけ。「宮の跡」が。「巨石」、ゴロゴロ。あっちの吉野にあります?「ない」でしょ?だから、これを一つ一つ証明立てることが出来たら、もう間違いなく「邪馬臺国」「倭国」、「天武」「卑弥呼」、それから「神功」「崇神」、もう誰でも良いです。もう、みーんなこっちに都を置いた天皇さんばっかりです。「天武」までね。あろうことか最後は、ね?「天智は天武に殺された」。今日、初めて言いました。


これからちょっと書いていきます。どこまで固められますかね?さぁ、今日付録ここまでですけど、付録も面白かったでしょ?付録も面白かったでしょ?まだ、これからです。じゃあ、まだ後半の方はちょっと中途半端ですけど、予告だけはしましたよ。ね、何とか証明できると面白いですね。天智は天武に殺された。もうこの後は(*不明)ですね()はい、じゃあこれで今日は終わらせていただきます。どうも…


<拍手>


[質問者: 大変あの、すばらしいお話、ありがとうございました。実はですね、仮名序がですね、『万葉集』の秘密を解く鍵だというなこと(*不明)気になってもう、見してもらっとったんですが、今日いくらかわかったような気がしてますが、それからですね、これちょっと今日の、その(*不明)ではありませんけれども、応神天皇の父は仲哀天皇でよろしいのかどうかと、今日忍熊の話…]


あ、「忍熊王」の父親が「仲哀」です。


[質問者: 仲哀ですね。ですから、応神天皇の父親は仲哀じゃないわけですよね?]


「応神天皇」の父親は推定、「武内宿禰」かも知れません。


[質問者: 武内宿禰ですか?成務天皇ということはあり得ないと思い…?]


それはあり得ないですね。成務はちょっとあり得ないですね。成務天皇も直方の地で初めて石に刻まれた成務天皇見かけましたけど、彼はとにかく火山活動で荒れ果てた筑豊の地を立て直すことだけで一生懸命で、彼の経緯はちょっとわかりませんね。