大事なことは、みんな「石造り」なんですよ。堅固なんです。残ってるでしょ?石は。残念なことには、石は「年代測定」が出来ないんですよ。(*不明)には。残念なことには。出来ないけども、3点セット。ここまで揃っちゃったんです。ここまで揃っちゃった。それで、天武天皇がここで不戦の誓い立てた。鸕野讚良も含めてね。持統天皇まで含めて、もちろん。
だから、もうこれで「神武は筑豊に東征した」に始まって、今日お話しした宇治宮のお話、宇治天皇のお話、天香山のお話、そして今日の吉野宮、天香山の西から引いた狂心の渠、それから宇治の京の東にある呉中平雪穴、全部また宇治宮中心、天香山中心、英彦山関係、その全部南北東西にあるわけでしょう?遺跡これだけあるんですよ。神武天皇、墓まであるんですよ。まだ、推定ですけど。後は発掘するだけなんです。
後は本当に学術調査をやってくれて、「間違いなく福永の言う通り、これは斉明が造られた吉野宮なんだ」と、こういうことがわかれば良いわけです。それで今、私がもう一つやってるまだ、まだ1ページしか書いてないんですが、『懐風藻』の中に吉野宮という詩が吉野宮に関する詩が8首以上ありましてね。そこに書いてあるのが、実は全部「天羽衣伝説」なんですよ。「天羽衣伝説」。
この前、富士山の所であの何でしたっけ?三保の松原でしたっけ?うん。あれが世界遺産に登録されましたけど、あれは伝播した「後」ですからね。天羽衣の伝承地ってのはこっちが「本家」だったんです。それは『懐風藻』という我が国最古の漢詩集に残されてるんです。原型も簡単です。8人の天女が降りてくるんです。だから、その吉野宮の『懐風藻』の詩の中に八石、8つの石というのが出てきます。それからやっぱり吉野宮の関係で7人のお姫様、天女は天に戻っていった。
一人の天女だけが天羽衣を隠されて、それで天に帰れなくなった。そこで樵(きこり)と一緒になったという場所なんです。その天女が人目に付かずに降りてくる場所、こういう山里です。山深い所です。三保の松原?漁師がいっぱい居ますよ。すぐ(*不明)っちゃいますよ。それからこれは家の女房の話、家の女房は栃木県出身で海にはあんまり触れてないんですね。だから、時々海水浴に出かけると非常に印象深く残ってるのは、「潮水に濡れるとベタベタよ」。
そう、天女が水浴みするのはこういう美しい場所です。で、人がいない所です。そこが仙郷、仙人の里です。だから、この『懐風藻』に見る限りは、この私の探し出した吉野宮、この場所にやはり天女が降りてきたという「羽衣伝説」の原型がここに実はあった。つまり、本を正せば古代の倭王朝の離宮のあった所に関わる伝承だった。だから、丹後の天羽衣伝説も当然伝播した「後」の形、三保の松原なんてのは、またそのまたずーっと「後」の話。
沖縄方面に残る天羽衣も全部、ここ発祥。この都から全部あちこちに広がったという伝承だったんです。それ今、一生懸命書いてます。また来年あたり「天羽衣伝説」、実際に『懐風藻』追っかけてやりましょうか?だから、文学ってのすごいでしょ?そういう伝説の世界の、いや発祥地はこっちだったよって言ってるわけです。私、何度も言ってますように國學院大学の中国文学科です。で、『懐風藻』学生時代に読みました。でもその時、吉野の詩だけ読んでなかったんです。
で、この歳になってやっと吉野の詩読んだら、「何?ここ全部、天羽衣伝説ばっかり書いてあるじゃん」なんて。もうこれに気付いてビックリしましてね。「あ、ここかぁ…」と。ここだったら、人目に付かないですよね。付かないですよね?だから、そこに天羽衣置いて来るわけですよ。それで一人が天羽衣隠されちゃったから、7人のお姫様は帰っていく。一人は残される。で、それで原型はその一人の男としょうがないから夫婦になって子供まで産んじゃう。