656年だったら多分、水量も豊かですし、ちょっと上れば良いだけなんです。そしたら、ここで船を競うことできるわけですよ。この離宮の場所で『万葉集』に詠われた通り、滝はあります。「宮滝」です。宮の横に「滝」流れてます。その激(たぎ)つ瀬の所で、船が朝晩競ってます。大宮人の船が並んでます。そういった情景を全部備えたのが、この「吉野宮」です。
だから、斉明天皇の建造物、「狂心の渠」、それからあの大坂山の宮の東の、宮の東の大坂山の、あの「呉中平雪穴」、これで2セット。2個ですね、遺跡がね。これでこの「吉野宮」が、本当にここであるとするならば、これでトリプルで重なったわけですよ。だから、斉明天皇まではまず間違いなくこの北九州に、倭の国があったし、倭の天皇さんはずーっと斉明天皇までは間違いなくここにいらした、と思ったら天智さんもいらっしゃった。
それから天武天皇は壬申の乱の後に、吉野宮まで出かけたという記事ご存知ですか?鸕野讚良と6人の皇子を連れて、ここで平和の誓いを立てるわけです。兄弟仲良く過ごそうねって。この宮がここであるとしたら、天武天皇も間違いなくこの宮に来られてるから、天武天皇もある時期までは、神武から天武まで、みんな九州の倭の国にいらっしゃった。動かないでしょ?動かないでしょ?私これだけ遺跡探し抜いてるんですよ?ただの文献実証学じゃないですよ?
これだけ遺物抜き出した男もそういないんですから、運が良いと言えば運が良いですけど、まるで本当に天皇家の祖先の神々が私に憑いたかのように、あちこち発見しとりますけどね。これだけ恵まれてるんです。これもひたすら『万葉集』やったおかげです。倭歌が解き明かす古代史、倭歌に書いてあることは嘘じゃないよと。これがだから、どこで詠まれたんだ?と。どこ詠んでるんだ?と。それをやったらこういう所に行き当たるんですよ。
行けば行ったでまた、「何?このお宮さん…」「何?こんな巨岩ばっかり」「何で石垣があんの?」って。これ、あそこの悪いですけど、村の人たちが造れるようなお宮さんじゃないですよね?石段だって長い。あの巨石、大体どっから持ってくるんですか?(*不明)さんたちが。村人たちが。何であんな巨岩だけ放ったらかしするんですか?壊れたまんまで。
そしたらみなさん、歴史に詳しい方はご存じでしょ?ここで、古人大兄皇子ここで殺されたんですよ。吉野宮ってね、一時期破壊もされてるんですよね?(*省略)古人大兄、ほら殺されて、天智天皇が即位するでしょう?あの場所、これですよ。古人大兄が逃げた場所。隠遁した場所。ここまで都の軍隊追っかけていく、暗殺するんです。で、天武天皇がまた壬申の乱の後、ここに来るんですよ。
で、天武天皇は壬申の乱が始まる直前に、天智天皇の元去りますよね?武装解除して。吉野宮に入るんでしょ?この時の天智天皇ってのは、近江宮にいらしたわけですよ。で、この天智天皇が面白いことに、また先程の宇治宮と関係しますね。あの唐からやってきた軍隊を謁見した場所が宇治宮(菟道)です。『日本書記』書いてありますね?あれも宇治宮です。ということは、天智が宇治宮にいたということは、母の斉明天皇さんも一時期『日本書記』には書いてなかったけど、実は宇治宮にいらっしゃった。
あの宇治宮から先程の「呉中平雪穴」というのは、まさしく宮の東、大坂山にあるわけですよ。私最初、岡本宮だと思ってたんです。だけど、子供の天智が唐の軍隊を謁見した場所が宇治宮だから、仁徳以来、やっぱ宇治宮があそこだったとすると、これでやっぱり宇治宮の東に、あの「呉中平雪穴」があるということで、『日本書記』はまた嘘じゃなかったんですね。ほら、だから『日本書記』改竄されてないじゃないですか?肝心なところは。僕最初勘違いしてたんです。
だから、あれは本当は宮の北じゃなかったのか?と。岡本宮を赤村に比定しちゃってましたからね。だからあれ宮の北の間違いじゃないの?と思ってたら、いや、天智さんが意外と宇治宮にいたと。あそこで閲兵やってると。だから、お母ちゃんの斉明さんも宇治宮にいたんだろうと、一時期はね。そうすると、その宮の西に宇治宮にいる時に、「狂心の渠」とあの大坂山の「呉中平雪穴」と今呼ばれている遺跡と、それからこの「吉野宮」と、3点セット、全部これ「石造り」で造ってるわけですよ。