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2017年8月16日

#005 「続・真実の仁徳天皇」福永晋三 [2時間30分~2時間35分]

今はここに一応民家がありましてね、中々下りにくいんですがね。もう一つ、この横、「吉野川」が流れてます。一番下、落ちる所が「滝」です。ちょっと小さいですけど、滝です。だから、「吉野の滝」と「吉野の宮」と、ここが全部揃ってるんです。全部揃ってます。で、ここにはですね、応神天皇もそうですし、応神天皇の宮はどうもこっちの辺りにあるらしいんですがね。ここら辺、応神紀に出てくる「小野」という地名があります(*1)。どうもこの辺りのようです。ここ、みんな「吉野」ですね。


で、ここの郵便局ですね、最初ここ通り越しちゃったんです、わかんなくて。ピューっと。で、「あれ、もう過ぎちゃった?」っていうことで、それで郵便局に入って、そこで「若宮神社ってどこにありますかね?」って聞いたら、その土地の人が、おばさんでしたけどね、「あ、吉野宮ですか?」って、こう聞いてくれたんです。「え!?今、お母さん、何て言いました??吉野宮って言いましたよね?」っちな感じで。「あぁ、私たちは吉野宮って呼んでますが」。




もう、こういう偶然に出会うんですね。福永ってのは運の良い男です。地元の人からいきなり「吉野宮」って言われたんです。「あぁ、やったぁ!!」ってな感じで、それで戻りまして、上ったんですね。さぁ、今日はこの会でも初めてですよ。はい。上っていく途中です。巨石ゴロゴロ。これ、壊れてるんですね。何か知りませんけど。これがね、境内のあちこちにあるんですよ。さぁ、こうやってその巨石を横に見ながら上っていきます。上っていきます。もう、あそこに石垣、見えてますかね?





この辺りね。途中に石垣があるんです、左右に。まだ上っていきます。ほら、また壊れた巨石。これも「石造り」でしょ?これ「石造り」のお宮さんでしてね、この後、何年かに分けて何度も、この吉野宮入るんですがね。要するに周りに石垣、あるいは石積みの城壁の跡が伺われるんですよ。これがどうやら、本当に斉明が建てた、斉明2年に建てた、656年に建てた「吉野宮」の跡地らしいです。





さぁ、これが一番わかりやすい石垣の写真ですね。これ左側の石垣です。これ、斉明天皇こさえたんでしょう。ここに多分、衛兵が立つんですよ。ね?ここは簡単には上れないわけです。もう、奥には天皇がいらっしゃるわけです。で、そうやって上っていった先に、今はこんなお宮さんが建っとるわけなんですね。で、これ意外と広いんですよ。だから、ここに御殿、宮殿があったとしても一向に差し支えないですね。結構広いんです。結構広いんです。


で、周りによく見ますとですね、土手があるんですよ、土手が。土手が築いてあるんです、ずーっと周りに。その周りにまた石垣がこうありましてね。後ろまでね。だから、これでその山国川、旧吉野川まで全部石段が下りてまして、で、斉明天皇はその石段から直接船で降りて、そのまま石段を上がってこられると、もう宮まで着いちゃうという、そういうシステムの所になるわけですね。で、そうしました時にね、もっと大切なことは、今、私『懐風藻』やってるんですけどね、『懐風藻』と『万葉集』をね。




で、『万葉集』の中で朝晩に船を漕いで競うという文句があるんですよ、『万葉集』の中には。で、みなさん奈良県の吉野行かれた方いますかね?あそこ、どうですか?例えば、平安時代の竜頭鷁首(りょうとうげきしゅ)のような船が、あそこ浮かべられます?並べられます?ここの「魔林峡」、間違いないですね。で、僕はこの地元の、(*省略)山国町ですか、旧。中津市。この山国町の市庁に行きまして、役所に行きまして、そこの建築課の人に聞いたんですよ。


「ここ、明治時代まで、堰のなかった時代は海からここまで来れますか?」って聞いたら、「あぁ、堰がなかったら、来れるでしょう」。まぁ、簡単に返事されましたね。ここだったら、豊前の都から先程のほら、「ビワノクマ古墳」ありましたでしょう?あの行橋の海に出て、あの海から回ってきて、山国川、吉野川上っちゃえば、このお宮さんまで行くこと出来るわけですよね。




*1 雄略紀か?