そんなこと考えてたんですが、そうじゃなかったですね。生き死に関わる、これ「灌漑用水」のためだったんですね。それがわかりました。次の白黒写真はですね、これは香春町教育委員会が、そこに書かれてある看板の写真です。ほら、北側ちょっと見てください。柵がもう出来てるでしょ?もう、安全なコンクリート、木に似せた柵が作ってありますね。今は落ちる心配ないです。さっきの写真は整備される以前の写真ですから、もう下手すりゃ、もう足踏み外したら、もう落ちちゃう。
もう、大けがしてね、担架に乗んなきゃいけないような、そういう所でしたね。その危ない時代から見てきましたけども、驚いたことには先程の地下水路の記事を書いた、調査をした桃坂さんが私たちよりもっと前に、藪の中からこれを探し出してたらしいですね。もう、すごいです。だから、彼もやっぱりよく香春の地元をよく研究してますね。で、このやっぱり「呉中平雪穴」が同じように、地下水路と同じように、斉明天皇が造られた灌漑施設の跡だっていうことにはやっぱり思い至らなかったみたいですけどね。
だから、彼は時代を間違えただけです。文献がないから。だから、そこに私が「いや、これこそ『日本書記』の斉明2年に書かれた地下水路、『狂心の渠』のことだよ」って言って、彼はもう今納得してくれてますんでね。だから、先程の写真も送ってくれたわけです。「見つかったよ!」って言って。香春町の水道局が、もうここ3年も要求してるんですがね、一向に出してくれないんですよ、資料。
だから水道局が造ったぐらいですから、少なくとも溝の寸法なんか測ってると思うんですよね、精確にね。それ出してくれっち言うんですよ。あともう一つは、水質も多分検査してるはずなんです。そら給水設備造るんですから、飲めない水じゃ困りますもんね。だから、水質調査もしてるはずなんです。その結果をくれと言うとるんですが、出してくれないんですねぇ…「もう20年前だから、わからん」、これだけです。もう、今度はちょっと脅迫に行こうと思ってますけどね(笑)。
さぁ、そんなこんなででしてね、先程の文献でお見せしたところの、最後の文献のところの後に、すぐまた<又、③吉野宮を作る。>という一句があるんですよ、『日本書紀』。同じ斉明2年に。<又、③吉野宮を作る。>もう、これだけです。だから、斉明天皇が例の有名な「吉野宮」を造ったんだという記録があるんです。大ヒント、もう出しましたでしょ?『狂心の渠』、ここで造られてるんですから、斉明天皇。石垣もここに造られたわけですから。じゃあ「吉野宮」もやっぱり豊国の中にあるんだと。
これはまず結論の一つですよね、仮説の一つですよね。で、私どもは神武天皇紀の中に出てくる「吉野の国樔」という人々がいますよね?あの「吉野の国樔」の「国樔」(くず)が、あの「玖珠町」の「玖珠」(くす)、あそこだということがわかりました。近くに「九重山」もありますし、「九重町」もあります。だから、大昔は「くす」じゃなくて、あれは「くじゅ」って発音したんですね。その「くじゅ」の近くに「吉野」があるはずだと。これが神武天皇紀のヒントです。
当然、「玖珠町」のことですから、「九重町」ですから、英彦山の南側にあったわけです。それを証明したのが今度は応神紀です。応神紀の中に豊前の中に都があった時に、応神天皇は、応神天皇は英彦山の南に吉野の離宮を建てられたとあるんです。で、道が険しくて、しかも狭くて、それで吉野の国樔は都までは来れなかったけども、その吉野の離宮を造ってからは、吉野の国樔がいつもやって来て、土地の産物を提供してくれるという記事が応神紀の中にありますよね。
で、私はあれをやっと読み解いて、「あぁ、英彦山の南か」と。これでやっと神武天皇紀と当たったと。ところが同じ土地に、三度というか、三度、今度は斉明天皇が吉野宮を造られたって言ったわけです。それで、もう吉野探しに行きました。はい、これは奥耶馬渓です。奥耶馬渓にちゃんと「吉野」という場所があります。あそこデカデカ書いてありますよね?
「吉野地区」。「吉野」がありますね?あの中心の辺り、「若宮神社」というのがある。多分、これだろうと。これが斉明天皇の建てられたお宮さんじゃなかろうか、離宮じゃなかろうかと思うんですね。ここに石段がありましてね、これは山国川まで下りてます。

