無理ですよね?だからこれは、当時の人たちの命がけの公共事業ですよね。天皇家個人の問題じゃないです。もう、民だって生きるのに一生懸命です。だから、みんな動いたんだと思いますよ。だから、今でも「現役」で動いてる。これ、考えてみたら、あのローマ帝国の水道よりすごいでしょ?「現役」ですもん。今でも飲める水、出るんですもん。香春町の水道局が渇水対策でこっからタンクに溜め込んでるんですもん。656年の遺跡と現代のその給水設備が繋がってるんですよ、あそこで。
さっきの工事現場で。もうこれにも私驚かされましたね。もう一つ、最初の記述にあった通り、また宮の東の山に石垣を積んだってありますでしょ?これも柳井さんに案内されて、もう既に見てました(笑)。もっと前に。もう、これは6年位前です。これが「呉中平雪穴」(くれなかだいらゆきあな)と言います。「大坂山」の中腹にあります。北側です。だから、あの豊後の火山と反対側、大坂山の反対側に、豊後と反対側に掘られています。ここまでこの石、積み上げなきゃいけなかったんですね。
で、これ地元ではね、これを研究した人が明治時代に、冬の間ここに溜めていた雪を、夏になって周りにその飲料用ではなくて、冷やすためだけに、この雪の塊を売って歩いてたっち言うんですね。その郷土史家の方が、その一家が売り歩いていたから、明治時代に造られたんだろうって、こんな馬鹿なこと言っちゃった。だから、香春町教育委員会は今でも看板に書いてありますね。明治時代に造られたんだろうって。バカを言えっちいう…(笑)。これが斉明天皇の造られたもう二つ目の遺跡跡です。
見てわかるでしょう?えーっとね、横長でこれが9.5メートル、平面にすると。縦が7メートル、深さが5.5メートル。これ、穴掘って、石運んできて、これを荒積みするんですよ?で、これに「雪」を溜めとくんですね。そうしますと、夏にこれが徐々に解けて、そして昭和52年頃でしたかね、台風のせいで下の排水設備が壊れたんですって。大事なことは「排水設備」がそこにあったっち言うんです。じゃあ、あと考えられるのは排水の先はどこか?多分、この下の田んぼです。
だから、「夏の渇水対策用」の雪穴です、これ。斉明天皇という方、それに仕えたその先程の水工、すごい「知恵」と「技術」ですね。夏の雨の降らない時期、その時にもその雪を溜めといて、それを徐々に溶かして、溶けたやつを、またそこの灌漑用水に使うという、もう二重の対策を立てたわけですよね。これがやはり香春の町の中にあるわけですね。大坂山の中腹にね。これ、私が行った時にはね、まだ再発見されたばっかりで、こういうね、鈴縄のテープ張ってあるだけです。
もう下手すりゃ、そこ落ちます。で、これもね、最初に見た方、見た方の発想で、これはだから元々、その溜まった雪を掘り出しに行く施設じゃないと。なぜならば、「内側に下りる階段がない」と。だから、「解けるの待っただけ」の雪穴だって。こういう風にもう既に喝破されてたんですね。「当たり」だと思います。灌漑用水ですから、解けるの待ちゃいいんです。だから、わざわざ雪取り行かなかったんです。
ただ、明治時代のその一家は、たまたまこの雪穴の存在知って、それでここに溜めときゃ、夏のあのまだ冷蔵庫のなかった時代に雪を持って売りに行けたから、それでね、暮らしの足しにしたんでしょうね。だからこれもね、一家5人ぐらいでね、掘って積めるような物じゃないですよ、これ。だからこれ、斉明天皇が造られた石垣なんです、これ。だから私、最初「石垣」って書いてあったでしょう?で、私、馬鹿やからやっぱり、中世の城思っちゃったんです、石垣。立ってる方だと思った。
違うんです。こう、掘ってあったんです、これ。で、これもね、やっぱり柳井さんに紹介してもらってたんですよ。で、その頃は一体誰がやろうか?と。私もね、中国文学やってる人間だから、唐の時代にね、自分の家の地下に氷室を造って、それで夏に氷を取り出して、オンザロックをやった詩人がいたっていう記録があるんですよ。だから、その時に私が思ったのは、やっぱりここに元あった古代の天皇家ね、大王がね、夏にこっからそのね、氷室だから、雪穴だから、雪取り出して、それで本当に日本でも古墳時代にオンザロックやってたのかな?と(笑)。