だから当然、それは戦国時代の話ですから、当然斉明天皇の後ですよね?だから、その斉明天皇の「狂心の渠」の故事の上に中世の、その香春城落城の物語が続くわけです。水を絶たれたがゆえに、香春城落ちるんですよ。そういう伝承が香春町の盆踊り歌に残されてるんです、歌詞の中に。これはもう桃坂さんに送って貰ったんで、私の手元にあります。今はまだ執筆中ですがね。どうまとめようかと。だから、そういう大規模な水路がなくては、香春城落城の話も成り立たないでしょう?
水源潰されたから、落ちたっち言うんですよ。だから、かつて斉明天皇が造られた「狂心の渠」から、サイフォン式の渠だから、そこから穴を開けて取りさえすれば、後は水圧で上ってくるわけですから、山の中腹の城まで。それくらい高い所まで水が出たっち言うんです。その水源を大友の家来が庄屋の娘から聞き出して壊すわけなんです。それで今、桃坂さんがちょっと心当たりがあると。水源地、取水口。だからもう一回、三ノ岳の西側見てみると言ってくれてるんですね。
だから、今年の夏また来ますけども、その時に果たしてその取水口跡が見つかるかどうかですね。そういう楽しみが待っとるんですよ。これがまず一つですね。これでいわゆる「狂心の渠」、とすると先程みなさんに宇治天皇の所、真実の仁徳天皇でお話しした川、宇治川です。金辺川です。ここを船で、例えば岩石山(がんじゃくざん)辺りから石を運んできたとしたら、船200隻で来れるわけでしょ?地理的に問題ないでしょ?もう、奈良県だったら絶対ダメでしょ?
成り立つんですよ、この土地だったら全部。宇治川さえ、こうやって石を載してやって来れば、200隻で運べるわけですよ。その石をさっきのような、写真に見られるような実際のあの構築物にこうやって地下を掘ってですよ、掘ってそこに石組み造って、それでまた粘土を被せるわけですから、延べ3万人余りの人夫が働いたってわかるでしょう?江戸時代に造ったんだったら、これだけの大工事ですもん、記録残りますよ。金沢城のあの兼六園の噴水だってそうですよね?
あれは当時の加賀藩の家来が、やっぱり土木建築に長けていて、金沢城の台地よりも高い所から取水、水を取って、それを地下を這わせて金沢城まで持ってきたから噴き上がるんですよね?あれもサイフォンの原理ですよね。有名な話です。だって、あれだけの大工事だから記録に綿々と残ってますよね?この香春の村、町にはないんですよ、記録が。だから、江戸時代に造られてたら金沢城と同じぐらい記録があるはずなんです。ないんですよ。
とすると、一つだけ思い当たるのは『日本書紀』のこの斉明2年の記事しか本当はないはずなんです。だから、これをどっかの大学の考古学が「福永の言う通り、これこそが斉明天皇の『狂心の渠』だ」って言ってくれれば、日本史ひっくり返るわけです。ほら、斉明天皇まで間違いなく香春にいらっしゃったわけです。でしょう?この渠造ったんですもん。国家事業です。じゃあ、何で時の人に「狂心の渠」まで叩かれながら、彼女は掘らなきゃいけなかったかという話になっていくわけですね。
(*省略)はい、文献です。これはその『日本書紀』の中に、高見大地さんがよく取り上げるんですがね。要するにあの豊後の鶴見岳とか、それから由布岳とか、あの火山が平安時代まで噴いてるんですよね。その火山の噴煙が香春の町まで届くわけです。だから、そのおかげで『古事記』や『日本書紀』には結構「火山噴火の記録」が、あちこちにあるよって言うんです。これは高見大地さんの見解ですね。
だから、いつ火山が噴いたかという、その火山考古学とも一致するんだよということで、彼女はその火山考古学の世界で、このことを発表しとるわけですがね。その中の一節です。<火山と宮処(みやこ)>、つまり『日本書紀』における都というのは、「火山の近く」にあるんだよと。<~については、『日本書紀』の次のような記述から推定した>とありますね。