要するに「不明だらけの地下水路」。だから、「謎の地下水路」なんです。で、私はこれを探していたから、「ああ、それこそ斉明さんの『狂心の渠』だー!!」って、もう思い至っちゃったわけですね。それだけのことなんです。さぁ、それでその桃坂さんが調べた時、もう今から20年ぐらい前なんですがね。実際にこの水路が発掘されたのが。これです。今の香春町の岩原辺りにあるんですが、これまた面白い話ですよ。
香春町が渇水対策として、夏に雨が降らなくて、水道の水が途絶えちゃいかんということで、この地下水路の上に「給水タンク」を造ったんです。ポンプで汲み上げて、でっかいタンクに納めとくんです。それで香春町に渇水がなったら、こっから水を流して取りあえず飲み水確保しようという。そういう現代の水道設備がこの地下水路に直結しとるわけなんですね。これはその岩原のその給水施設造る時の掘った時の写真です。地表からほら、あれだけの高さです。これだけ地下に埋まってる。
この辺りなんです。ここに40㎝四方ぐらいの石組みの水路が流れてるんです。これをね、桃坂さんから聞いて私は、「この時の測量の資料が残ってたら出せ、出せ」言うとるんですがねぇ、出してくれないんですよ。香春町水道局はサボって。はい、これです。これはちょっと上の方から覗いた拡大写真ですね。ここ、あの水が流れてるわけです。うん、綺麗な時に飲めるんです。この水ね。これを更に降りて行って撮った写真がどうもこれらしいんですね。ほら、見てください。
上が「石」でしょ?上、あれ一枚岩ですよね?どう見てもね。横も「石」です。「石組み」なんです。それでこの現物を見た桃坂さんによれば、更にこの周りを粘土で覆ってあるっち言うんです。うん。だから、地表の水が入って来ないようになってる。だから、桃坂さんの結論の一つは「排水設備」ではないと。これは「給水設備」だと。それでこれは出所というか、取水口が高いからサイフォン式になっていて、途中は金辺川の下、川の下をも通ってる水路なんです。
そういう「大工事」の跡なんですよ。だから、これが少々高い所、あるいは低い所に行って高い所に上っても、上ってもその取水口よりも低いから、サイフォンという原理によって噴き出すわけです、水が。だから、地元では「吹き出し」と呼ばれているって言うんです。もう、これだけでも驚きですよねぇ。それで桃坂さんが一応地元の人から聞き取り調査をやって、一応ここまで図を完成さしたんですね。
それで、あの採銅所と呼ばれる辺りから、(*省略)岩原の辺りまで確実に4㎞は最低限ある地下水路。ここまではわかってるんです。で、僕がこれに加わって、「いや、これこそが斉明天皇2年の記事、つまり西暦656年に3万余人の人夫を使って拵えた地下水路の跡である。だから、これが間違いなく『狂心の渠』であろう」ということがわかったわけです。すごいですよね?
ところが、これが地元の百姓さんによって、所々複数、平行で走ってるということは、いくつも支流って言うんですか、別れるわけですよね。この香春の平野の全部に行き渡るようになってるわけです。だから、以前にはですね、この辺りで噴き出しているとか、この辺りで噴き出しているとか、そういう所がいくつもあったらしくて、先程みなさんにお知らせした「宇治の宮」、宇治の宮の辺りでも実は吹き出しの跡があったらしいんです。
これはもう、今となってはもう推定と言うか、もう伝聞でしかありませんけどね。だから、あちこち結構、山の中腹までその水が出ていたらしいんですね。もう一つ、これは後に桃坂さんから、更に翌年、ですから去年ですかね、に貰った資料の中に香春町の盆歌、盆踊りの歌というのがあるんですがね。その中に、中世に香春城が、えーっとあれは大友氏でしたっけ、に滅ぼされた時、香春城落城の物語がありましてね。
それで、大友の家来が先程のその香春の、この水路、水源地と思われる、あのやっぱり三ノ岳の西側の庄屋の娘と恋仲になって、その娘から水源地を聞き出して、それで香春城の水源を壊したという中世の記録があるんですよ。