その時にこの歌が添えられて、「そへ歌」になった。大鷦鷯天皇。だから、ここで「仁徳天皇」って言っちゃダメなんですよ。「大鷦鷯天皇を風刺し申し上げた歌」に変わったっち言うんです。この歌の解釈が、今までの国文学者誰も出来なかったんですがね。今回これが歴史的事実だということ、今までのすべてを盛り込むとこんな解釈になっちゃうんです。
[大鷦鷯天皇の遠つ淡海にある難波高津の宮には咲き誇っていますか、梅の花が。いや、決して咲きますまい。冬、木の芽が盛り上がるように、かの宇治帝が三年間、人民の課役を科せられずに、雨漏りのする粗末な宇治の京の仮廬のような宮殿で過ごされ、その間に人民は富み、やがて炊煙が盛んに立つようになった、あの聖帝の御世を継承できますか。大鷦鷯天皇の御世となった今を春と讃えて咲き誇っていますか、梅の花は。人民と共に富み栄えることがなければ、梅の花は決して咲きますまい。]
これで「批判の歌」でしょう?原文がよく出来てるんですねぇ。「や」という係助詞の解釈で、これだけ逆転するんです、歌。歌、すごいんです。だからこれが「朝廷の初めを祝った歌」であったのが、大鷦鷯天皇の元に行った途端に「批判の歌」に転じたわけです。これ、『古今和歌集』の仮名序にはあるんですがね。今までの解釈っていうのは、のんべんだらりとして、全然意味がわからんのですよ。せいぜい大鷦鷯天皇が3年間、菟道稚郎子と帝位を譲り合った。
それじゃあダメだよと。今こそ天皇となって太平の御世を築かなければとか、何かそんな歌の解釈なんですけどね。そうじゃなかったです。だから、宇治帝を謀殺したか何かした大鷦鷯の帝に対する本当にこれやっぱ「風刺の歌」だったんです。だから、新しい天皇が人民のことを大切に思わなかったら、梅の花は咲かないぞという「脅しの歌」なんですね、これ。これ、古典やりのけちゃうんですね。五七五七七の中でね。いやぁ、だから短歌おそるべしですよ。倭歌おそるべしです。
こういうことが『古今和歌集』仮名序には本当に書いてあった。これ、どこの国文学者の大家の本でもいいです。読んでみてください。私の解釈とは似ても似つかない、えらい曖昧な、おぼろげな解釈しかしてありません。多分、これが下敷きです。この一連の話を下敷きに置いた場合に初めて出る解釈です。ということで、『百人一首』まで一気に行っちゃいましたけど、わかりました?じゃあ、復習です。「真実の仁徳天皇」、誰ですか?誰ですか?「宇治の帝」ね。「宇治天皇」さんね、はい。
それで、それを下手すると死に追いやった「暴虐」の天皇さん、つまり「偽者」の仁徳さん、誰ですか?「大鷦鷯天皇」ね。これで、この鷦鷯天皇さんから出た家系が佐々木さんですよね?だからいつも佐々木さんには悪いって言っておるんです(笑)。はい、そういうことでございます。だから、「稚鷦鷯」だけが暴虐の天皇じゃなかったんですよ。「大鷦鷯」、今まで我々が仁徳と思い込まされてきたあの大鷦鷯も実は暴虐の天皇だったんです。そらそうですよ。
腹違いの弟殺したんですもん、下手すりゃ。暴虐の天皇でしょ?しかも、その腹違いの弟の嫁さんまで寝取ったんですよ。すごいでしょ?ということを初めてこの(*不明)言っちゃったんです。だから、私が言いたいのは、だから3年しか在位されなかったけど、宇治天皇さんは偉かったよという話が主題なんですよね。ところがどういうわけか、お聞きになった方で福永は大鷦鷯の悪口しか言わんかったぞっておっしゃる方がいるんでね、それだけはやめてくださいね。
私は宇治天皇を褒め称えたんですから(笑)。それだけ覚えていただければ結構かと思います。それではこれで前半を終わりに致しまして、休憩に入って、この後この、また天香山にこだわり続けた結果として、斉明天皇とそれから壬申の乱のところまで、ちょっとまた天香山関係の話をしたいと思います。じゃあ、前半これで。<後半>はい、それでは後半に移らしていただきます。(*省略)これを最初に発表しましたのが、2012年の8月4日でしたかね。