「奈良県」じゃ、絶対ダメでしょ?カモメも見えない、豊旗雲も見えない、豊秋津倭国も見えない。それから新宮殿、宇治、それから難波宮、高津宮、ダメですよね?何も見えないですよね。さぁ、そうした時にですね、これにだから先程の『小倉百人一首』と関わってですね、『小倉百人一首』と関わって、トンデモナイことになってきましたでしょう?ここで「王仁」が関係してくるんですよ。それで百人一首の大会、カルタ大会の時に最初にうたわれる歌、みなさんご存知でしょうかね?
<難波津に咲くや木の花冬こもり~>あの歌ご存知ですか?あれは伝説上、「王仁」さんが詠んだ歌ですよね?先程古川さんがやられたように。王仁、百済から来たんです。この菟道稚郎子と呼ばれた太子に中国の儒教の典籍を教えられたという、要するに教育係です。王仁さんはね。その王仁さんが、その中国の儒教の教典を次から次に教えたからこそ、それに影響されたかどうか知りませんが、宇治天皇さん、菟道稚郎子さんはそういう民を大事にするという政治を3年間なされたわけですよ。
繋がりますでしょう。その歌こそが、<難波津に咲くや木の花冬こもり今は春べと咲くや木の花>というあの歌なんですよ。つまり、あれは新宮殿が成ったのが多分これが正月なんですよ。新宮殿は10月から取り掛かって12月ぐらいに完成するらしいんですね。そうすると、もう年が明けて春1月なんです。正月なんです。昔の正月っていうのは今の2月4日ですからね、元旦が。節分の翌日ですから。もうすると、「梅の花」咲いてるわけですよ。だからあの<木の花>っていうのは「梅」の花なんですね。
その梅の花が今を春べと咲き誇っているわけです。だからそれは仁徳さんの、菟道稚郎子さんの新宮殿造営の御祝い。そこには当然民が加わって、そこで御祝いをしているという歌に、こうなってくるわけなんですよね。さぁ、それではもう終わり近く行きましょう。これでやっと前半終わりますけどね。冬こもりの歌で、もう一気に34ページ飛んじゃってください。34ページ飛んでください。そこに<難波津に咲くや木の花冬こもり今は春べと咲くや木の花>という歌がありますね。
これはですね、先程申し上げた『古今和歌集』の仮名序の中で、「朝廷の御初めを祝った歌」という意味とですね、もう一つは【新解釈二】に書いてありますように「大鷦鷯天皇の政治を風刺し申し上げた歌」、原文は「そへ歌(添え歌)」って書いてあります。この歌の意味が、これもですね『古今和歌集』成立以後、誰もわかんなかったんですよ。藤原定家さんもわかってなかったんじゃないかと思うんですね。『小倉百人一首』を編集した人ですけど。
今回、今のお話を全部総合しまして、やっぱりこの歌は菟道稚郎子、宇治天皇の教育係だった王仁さんが、やっぱり宇治天皇さんの在位中に、やっぱり政治顧問としてなっていたかどうかわかりませんが、その新宮殿が成った時に「御祝いの歌」としてやっぱり最初は送ったんだろうということがわかったんですね。だから、今日は解釈だけいきますよ。
朝廷の御初めを祝った歌
[宇治天皇の新宮殿である岡(遠賀)の海の難波津にある比良の宮に咲き誇っているよ、梅の花が。ちょうど、冬、木の芽が盛り上がるように、宇治帝が三年間、人民の課役を科せられずに、雨漏りのする粗末な宇治の京の仮廬のような宮殿で過ごされ、その間に人民は富み、やがて炊煙が盛んに立つようになった。天皇は人民と共に富み栄え、新宮殿の成った今を、聖帝の御世の春(勢いの盛んな時期)と讃えるかのように、咲き誇っているよ、梅の花が。]
すごいでしょ?五七五七七からこんな長い解釈。これ、日本で一番長い難波津の歌の解釈です。さぁ、先程も言いましたように、この春2月ぐらいに宇治天皇は急に亡くなるんですよ…亡くなるんです。その後、大鷦鷯天皇に行くんです。そこで難波津の什(じゅう)が大鷦鷯の方へ行ってしまうわけです。