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2017年7月31日

#005 「続・真実の仁徳天皇」福永晋三 [1時間35分~1時間40分]

「額田王さんの歌」じゃなかったんですよ。これもまた「宇治天皇さんの歌」なんです。で、これはいつ詠まれたか?実は3年間、3年間、民から税を取らなかった。だから民は課役に苦しまなかったというわけなんです。そしたらですね、臣下たちがね、今は民が豊かになったんだから、もうそろそろ税金復活しましょうよと。今の安倍内閣の消費税増税じゃないんですから。民が豊かになったから、全体の給料が上がったから、じゃあちょっと消費税上げさせてね。そんなもんじゃないです。


民が豊かになったからって、この時はですね臣下が、家来たちが、もういい加減天皇様、税金取りましょうよって言ったんです。それでも最初は宇治天皇さん「うん」って言わなかったんです。『日本書紀』の記述では。「まだ、待て」と。それでまだ待ったんです。それで臣下が何度も何度も重ねて言うから、それで仕方なく許可したっち言うんです。宇治天皇さん。そしたらね、今度はね、急に「新宮殿」造る話になっちゃったんです。それが後ろの方に書いてあるんですね。


後ろの方に書いてあるんです。それがですね、22ページ辺りですね。それで八、聖帝伝説の疑義③新宮殿の造営ということで、この香山に再び登られた秋8月の記事で、秋9月ですね。秋9月ですね。ここの時にもまだ許されなかったんですが、えーっといつになりますかね?新宮殿造営を進言したのが3年秋9月ですね。そして宇治天皇さんはいよいよ諦めて、同冬10月、<(はじ)めて課役を科せて、宮室を構造る。>って書いてありますね。


だから、ここで臣下の進言を取り入れて、新宮殿を造ったっち言うんです。これが「比良の宮」と呼ばれた、これも大事なことなんですが、この新宮殿も実は「難波宮」なんです。つまり途中にありましたように、あの「古遠賀湾」まで出て、その海の近くに建てられたのが比良の新宮殿らしいんです。で、この比良宮というのが、あの先程の7番歌の所にあるわけなんですね。7番歌の左注の所に新宮殿を建てられたと。その年月も書いてあるんですが、干支で。


その新宮殿が出来て、その新宮殿、民が恩返しに日に夜を継いでですね、不眠不休で、新宮殿立派な宮殿を恩返しのように造ったっていう記録が『日本書紀』あるんですよ。だから、そこまで「聖帝伝説」続くんです。新宮殿が出来た。その立派な宮殿を目の前にして、<宇治の京の仮廬し思ほゆ>って宇治天皇さん初めてしみじみと詠まれたんです。


「民が立派に新宮殿造ってくれた。その立派な新宮殿見るにつけ、あの雨漏りがしながら我慢した3年間のあの仮廬のような粗末な小屋のような宮殿、あれが懐かしいなぁ…」って詠んだのが『万葉集』の7番歌だったというわけです。これもわが国で初めてです。私とうとう、この段階で藤原定家超えました。あの有名な歌詠みの領域超えました。ね?そうなんですよ。新宮殿前にして詠まれたんですよ。あの雨漏りのする宮殿の生活が懐かしいな。そらそうでしょう。


民が立派に新宮殿拵えてくれた。だから自分も我慢した甲斐があったなぁって思いもあるんでしょう。民に感謝する気持ちもあるんでしょ?これがやっぱり仁徳天皇の「仁徳」たる所以ですよ。大体、骨子おわかりになりました?「真実の仁徳天皇」。菟道稚郎子、即位されて宇治天皇。宇治の京。おんぼろの雨漏りする宮殿に3年間。そうです、これが「倭歌が解き明かす古代史」の醍醐味です。


最初の内は私の頭の中に、ぼやーっとした物が段々段々形作られていって、神功皇后紀を読む会のみなさんと一緒に解き明かして、解き明かして、解き明かして。そうしてついにこうやってここまでまとめ上げたんですね。全部、関連してますでしょう?だから、どれか一つでも本当に間違いだって言われたらもう全部崩れますけどね。いや、これ中々崩れにくい、こらぁ通説側に最も突きつけたいところですよね。