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2017年7月24日

#005 「続・真実の仁徳天皇」福永晋三 [1時間15分~1時間20分]

そこの写真だけちょっと見ておいてください。えーっとですね、そこに「伽羅松」(がらんまつ)がありましてね。「伽羅松」っていう場所があるんですよ、香春に。そこの中にですね、“里諺(りげん)に伽羅松という。村の西南道の上に古松あり。その周囲一丈五尺実に風雅な松なりとある。古きより寺の跡(伽羅)ともいい御陵ともいう”ってこれがあったんです。いや、この一節だけです。


『万葉集』の中にですね、上の段ですが、宇治若郎子の宮所の歌一首で1795<妹らがり今木の嶺に茂り立つ妻松の木は古人見けむ>という歌があるんですね。(*不明)の所に[(今来た)今木(今来)の嶺に茂り立つ妻を待つという松の木は、故人も見たであろう。]っち言うんです。このだから松の木の所に葬られたのが実は菟道稚郎子、本当は宇治の天皇さんではないかと。死に方がちょっと異常なんですね。


お墓建てられてないんですよ、この人。その伽羅松という伝承が香春の土地に残ってたんで、これもようやく抜き出したんですがね。はい、これがひょっとして宇治さんのお墓か?ってな感じで。現在この地はもう道路が通っててないんですよ、上の写真はね。下の移された場所の写真は今私が撮ったやつなんですがね。もう、そういうね、かわいそうなお話があるんです。さぁ、そこで7番、これが今日の一つのメインですね。聖帝伝説の疑義で3年の(*不明)課役免除という所ですね。


それをもう仁徳記に書いてある『古事記』の方がわかりやすいんですが、18ページになります。とにかく3年間、位を譲り合ったんですけど実は3年間宇治天皇は即位されていたということはわかってきました。そうした時に仁徳記にあります<是に天皇~>ほら、そこなんです『古事記』<~高山に登りて~>だったんです。さっきのほら、妻争い、倭三山歌と同じ表記でしょ?


これね、みなさん『古事記』普通の本読まれてください。これをね、訓読でね、江戸時代以来「高き山」って読ましてるんですよ。「高い山」。これが「たかやま」なんです、実は。もう一つ大事なことは、現存する『万葉集』が「高山」の所を「かぐやま」って読ましてましたでしょ?だから、ここは『万葉集』と共通して「高山」と書いて「かぐやま」とどうも読ましたらしいんですよ。


そうするとこれは「かぐやま」に登りてということで、例の『万葉集』2番歌<倭には群山有れど~>あるいは題名・副題に載っけてありますように、「香具山に登りて望國したまふ天皇」というあの人物に当たるわけですよ。それが仁徳記にあるわけでしょ?だから今日、ここだけ覚えて帰ってください。「高山」と書いて実は『古事記』の原文から直接「高き山」って訓読しないで「高山」と訓読して尚且つその読みを「かぐやま」にしてしまったら、これこそが香具山に登られた天皇さんでしょ?


それはだから他でもない「仁徳天皇」さんなんですよ。その3年間税金を免除したという天皇さんが「大鷦鷯」ではなくて、「菟道稚郎子」宇治天皇さんだったとしたら、これが題名にいう「真実の仁徳天皇」さんなんです。つまり、税を免除した天皇さんは、香具山に登って国見をなさった天皇さんは実は「宇治天皇」さんなんだよと。これを『古事記』『日本書紀』成立以来、初めてこの国で言ったわけなんです。香春の町を来る夏も来る夏も筑豊を渡り歩いた男の成果です…血と汗と涙の産物であります。それが一番わかりやすいんですね。


<~高山に登りて、四方の國を見たまひて詔たまひしく、「國の中に烟發たず。國皆貧窮す。故、今より三年に至るまで、悉に人民の課役を除せ。」とのりたまひき。是を以ちて大殿破れ壊れて、悉に雨漏れども、都て脩理すること勿く、椷(はこ)を以ちて其の漏る雨を受けて、漏らざる處に遷り避けましき。後に國の中を見たまへば、國に烟満てり。故、人民富めりと爲ほして、今はと課役を科せたまひき。是を以ちて百姓榮へて、役使に苦しまざりき。故、其の御世を稱へて、聖帝の世と謂ふなり。>