『日本書紀』の太子というのは、これは明らかに「菟道稚郎子」なんです。「菟道稚郎子」なんです。それから下の字、應神記、これは『古事記』です。『古事記』の方の太子は「大雀」の太子になってるんです。これだけなんですよ。これがね、『古事記』と『日本書紀』のね、両方存続することのね、非常に重要な意味だったんです。ものすごく重要だったんです!
『日本書紀』の方はですね、あくまでも「太子菟道稚郎子」で、「大鷦鷯」は皇子と書いて「みこ」なんですよ。この大義名分、『日本書紀』は決して動かないんですね。ところが、これが『古事記』になると、一転して太子は「大雀」だっち言うんです。それでいつの間にか、「宇遅能和紀郎子」っていうのは消えてゆくんです。フェードアウトしちゃう。それで『古事記』では、だから、「大雀」が、もう正統の跡継ぎとして、デンっと居座るわけですね。
ところが、『日本書紀』は、この「菟道稚郎子」の伝記というのは長いんですよ。『古事記』より圧倒的に。『古事記』も実はよーく読むと、「大雀」よりも、「大雀」よりも本当は「宇遅能和紀郎子」の方がたくさん書いてあるっていうことは、この後わかったんですがね。この「太子」の名分が、『古事記』と『日本書紀』で違うと。それはどこにかかってくるかというと、あの例の「皇后・髪長媛」の話と関わってくるわけです。
それでお父さんが、お父さんの応神が、最初にこの髪長媛さんが、名前の通り、当時髪の長いことがベッピンさんの条件ですから、このベッピンさんを、若いベッピンさんを側室か何か知りませんけど、とにかく迎え入れようとしてたんですね。その宴席に太子が侍っていて、それで髪長媛の美貌を見てしまった…!それで父天皇に「私に、あのベッピンさん下さい」とお願いするって話があるんですよ。
ね?この『古事記』と『日本書紀』、両方読み比べてみればわかります。大事なことは、『古事記』では、いいですか?『古事記』では「太子大雀」が髪長媛を欲しいと言った。いいですね?ところが、『日本書紀』では、「皇子大鷦鷯」が髪長媛を欲しいと言った。その辺りに、『古事記』と『日本書紀』をつぶさに比較検討しました。比較検討しました。
そうしましたらですね、絶対におかしいのが一つ見つかったんです。つまり、髪長媛を欲しいと言う所だけ、「大鷦鷯」が登場するし、『古事記』ではそこが「太子」が欲しがったって書いてあるんです。ところが、『日本書紀』の太子は何度も言いますが、「菟道稚郎子」さんなんです。もう、ここで大体おわかりでしょ?だから、本来ならば、『日本書紀』の「太子菟道稚郎子」こそが、髪長媛を見初めて、父天皇応神に、「あの女性をください」とお願いしたらしいんです。
「大鷦鷯」じゃなかったんです!だから、「菟道稚郎子」が欲しがった。「菟道稚郎子」がくださいって言った。それを証明するのが、12ページの下の段の所に書いてありますね。この後ですね、大鷦鷯尊、『日本書紀』ですけど、大鷦鷯尊、そこにYという記号がありますね。そのYの所に書いてあります。
<大鷦鷯尊
髪長媛と既に得交(まぐはひ)すること慇懃なり。独り髪長媛に對ひて歌ひて曰はく、<<道の後
古波儾嬢女(こはだおとめ)を
神の如 聞えしかど
相枕枕く>>>こういう歌が載っかっておりましてね、もう一つが、<又歌ひて曰はく、<<道の後
古波儾嬢女 争はず 寝しくをしぞ 愛しみ思ふ>>>という歌がありますね。
これの訳はどっかに、次のページ辺りに書いてあるかと思いますがね。おかしいんです。だって、『古事記』、それから『日本書紀』においても、大鷦鷯尊は、父の宴会で髪長媛を直接「見た」んでしょ?