私の家にあります、全部コピーが。香春町、貧乏なんですよ。Aの原版とかですね、Bの原版とかね、あのコピーできる機械がないんです。小竹町辺りにあるんですけどね。字図を単純に一枚でコピーしてもらったんですが、香春にはそのでっかいコピーがないんで、これをA3のコピーに分割しましてね、それで何十枚にも取って帰ってきたんですがね。
その中にですね、その「菟道宮」と思われる場所があるんですね。そこの金辺川の所の「宮原橋」という所の近くに、「古宮」という字名がいくつか見えますでしょ?「古宮」と書いて、これ、「こみや」って読みます。「こみや」と読ます。これが「金の野の菟道宮」の跡地だろうと思われます。そして実はこの仁徳さんって、ここで言う宇治天皇のお母さんがどうもここの出身らしいんですね。
これがですね、『山城国風土記』逸文とされているところに、実はここが「木幡村」、あるいはもっと古くは「許乃国」って呼ばれてたんです。それは『風土記』に出てきます。『風土記』逸文です。ここをですね、わざわざ土地の人に聞いたんですよ。「これ、『ふるみや』ですか?」って言ったら、「いいえ、『こみや』ですよ」と。地元の人が、もうみんなして「こみや、こみや」っち言うんですよ。
「何でわざわざ『こみや』っち言うんですか?」って聞いたら、誰も知らないっち言うんですね。だから元々これやっぱり「許」(こ)という土地なんです、ここが。狭いですけど。「許」という土地なんです。だから、ここが「許乃国」、「許可」の「許」という字を書いて「許乃国」。そして、応神紀に出てくる菟道稚郎子のお母さんと応神が出会った場所、「木幡村」なんです。「木幡村」なんです。
だから、そのお母さんの出身地に菟道稚郎子は即位して、ここに宮を建てたらしいんですね。だから、これがどうも「菟道宮」らしいんです。これでやっと「宇治の京」を訪ね当てたわけなんですね。その宇治の『風土記』には、9ページに書いてございます。これが「宇治」ですね。これが宇治の山城国の風土記に曰はくということで、これは後の人が勝手に推測して、山城国・京都に持って行っちゃったわけです。
いやぁ、な…。菟道稚郎子が建てた菟道宮っていうのは「香春の宇治」だったんですよ。それがやっぱり「古宮」という場所だった。これをようやく突き当てたんですね。そこに「許乃国」が最後にありますよね?(*省略)「許乃国」であり、そして、「木幡村」であり、大事なことは今日最初の所で古川さんが、くしくも「王仁」って言ったように、これ和珥臣(わにのおみ)の祖(おや)日触使主(ひふれのおみ)という人物が(*省略)出てきますね。
ほら、「和珥臣祖」が出てきますでしょ?後でまた「王仁」さん、出てきますからね。その場所だったんですね。さぁ、そこでですね、戻りますと、結局ここで先程一番最初の1ページにありましたように、菟道稚郎子は、この香春町の「古宮」と呼ばれる地に「菟道宮を興てて居しました」わけです。これで大鷦鷯の皇子が住んだ難波高津宮と菟道宮がこれでようやく確定されたんです。
だから、この間を、逸話ですけど、エピソードですけど、海人が行き来して、この大鷦鷯と菟道稚郎子が帝位に就くことを拒んで、お互いに譲り合った。それが3年間だって、『日本書紀』書いてありますよね?3年間、皇位を譲り合った。実はこの「3年」がくせ者だったんです。さぁ、後はその細かいことが色々書いてありますけども、みなさんには地名の方を中心にやっていきますので、次へ参りましょう。
それで10ページあたりに入りましょうかね。そこでは豊国のということが書いてあるんですが、それで宇治天皇と宇治の京、これを追究しました。そこで今度は(*省略)11ページ、「應神紀の太子と應神記の太子」という、何かわけのわからない題名になってございますね?これがですね、この二人については面白いんですよ。